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中途半端な作品

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 ロリコンと呼ばれるのは、笠原にとって嫌ではなかったが、特撮ヒロインやアニメキャラのような制服をきた小学生という、まだ女として開花していない女の子を自分の制服が好きな制服を着せる対象としては、見ることができないのであった。
 いわゆる「ヲタク」と呼ばれる人種なのだろうが、昭和末期のその頃は、まだヲタクなる言葉は浸透していなかった。いや、実際には自分が知らないだけで、一部秋葉原などの地域で呼ばれていたのだが、首都圏から離れていると、なかなか聞くこともなかったのだ。
 大学時代当時は、ディスコブームであり、学園祭だけではなく、その他大学のイベントとして、
「ダンパ」
 と呼ばれるものがあった。
 ダンスパーティの略であり、ソーシャルダンスではなく、ディスコ音楽を基調とした、ディスコを再現したものだったのだ。
 笠原の大学時代のディスコ―ブームは、扇子を振り回し、チャイナドレスっぽいボディコンファッションなどが流行る前のもので、ディスコブームの先駆けであった。
 歓楽街には、ディスコという施設があり、そこでは、なぜか、
「女性同伴でなければ、入場不可」
 という不可思議なルールが存在していた。
 ただ、実際にディスコブームというのは、微妙に形を変えながら、昭和五十年頃から、受け継がれてきている。ディスコという言葉がある程度聞かれなくなり、
「クラブ」
 というものに、変わっていったのであろう。
 やはり最盛期というと、
「ワンレンボディコン」
 などと呼ばれたいわゆる、
「イケイケ」
 という時代で、これがバブルの象徴と言われる、平成初期のことであった。
「お立ち台」
 なるものが存在し、その上で数人のボディコン女性が、「ジュリ扇」と呼ばれるおのを振り回していた時代である。
 今から思えば懐かしいが、あっという間に駆け抜けた時代だったという記憶しかない。
 何しろ、その時代は社会人になって数年という、会社では第一線で活躍する時代で、前述の、
「二十四時間戦えますか?」
 という時代だったのだ。
 確かに大学一年生、二年生くらいの頃は、洋楽も聞いていたし、ディスコで流れてくる音楽を聴くだけで、ワクワクしたものだった。
 当時はカセットによるポータブルラジカセが流行っていた時代。ポケットに入れて、ヘッドホンで聞いたものだった。
 ポータブルラジカセが発売された当時は、テクノポップなどが流行っていたので、ヘッドホンから漏れ聞こえるハイテンポなテクノサウンドにも、ワクワクしていたのが思い出された。
 そんな時代を懐かしく思うのだが、大学三年生くらいになってくると、次第に落ち着いてくる。
 人によっては、
「成人式を迎えた時、あるいは二十歳になった時、どちらかで、自分の意識が変わった気がするな」
 という人が多かったような気がしたが、
「俺の場合は、年齢というよりも、三年生になった時に、我に返ったような気がした」
 と、笠原は思っていた。
 なぜなら、二年生までの素行のつけが回ってきたというのか、三年生になった時点で、相当数の単位を残してしまった。
 友達と比較しても、相当なもので、二年生の間に取得しておく平均の単位数の、三分の二くらいしか種痘できていなかった。
「三年生で相当頑張らないと、留年を覚悟しないといけない」
 と言われたほどで、三年生では、真面目に講義も受けて、遊ぶという感覚を一度リセットしなければいけなくなった。
 今から思えばこれが、、自分の転機だったのかも知れない。
 勉強はもちろんだが、大学に来ているので、サークルには力を入れた。
 文芸サークルに入ったきっかけとなったのは、好みの女性がいたからだということは前述に書いておいたが、彼女には彼氏がいることが分かり、すぐに自分の中で挫折した。
「サークルを辞めようか?」
 とまで考えたが、結局辞めることはなかった。
 その理由としては、そのサークルでは機関誌を発行していて、自分の作品も載せてもらえるということが、実に新鮮だったのだ。
 確かに、好きな女性に惹かれるようにしての入部が一番の理由だったが、入部してしまうと、機関誌のおかげで入部の覚悟が決まったと思うほどに、自分の中で大きな存在だった。
 だから、彼女に彼氏がいると分かっても、簡単に辞めることはしなかった。もし機関誌というものがなければ、簡単に辞めていただろう。
 年に三度の発行であったが、テーマは文芸に関することであれば、何でもよかった。絶対に部員であれば、何かを投稿しなければいけないということもなく、表現したいものがなければ、掲載を義務付けているものではなかった。
 しかし、せっかくの機会なので投稿しないのは、部に所属している意味はないと思っていた笠原は、卒業するまで掲載し続けたのだ。
 小説、シナリオ、エッセイ、詩歌、俳句はもちろん、文芸と言いながら、マンガであってもいいということで、かなりのふり幅だった。
 実際にマンガを描く人も多く、マンガ研究会は、他人のマンガを研究するサークルであり、創作サークルではなかったので、自分たちの文芸サークルに入部してくるのは、将来のクリエーターを目指す人たちであった。
 元々笠原は、中学時代に国語の授業で作った俳句が褒められたことがあった記憶が強かった。
作文などは苦手であり、なかなか書けるものではなかった。
 四百字詰め原稿用紙、二枚分を書くのに四苦八苦し、自分でも何を書いたのか理解不能というくらいのものであった。
 そんな自分が文芸サークルに入るなんておかしいと思われるかも知れないが、小学生の頃から、
「モノを作るのが好きだ」
 という自負があったことが強かった。
 小学生の頃は、木工細工に打ち込んでいた。ちょうど日曜細工という番組が放送されていて、それを結構好きで見ていたし、
「俺もあんな風に作れるようになればいいな」
 ということで、家の勝手口のところを勝手に、創作室と称して、土曜日の半ドンを利用して、学校から帰ってきて、昼食を食べた後には二時間から三時間、木工細工に明け暮れたものだった。
 昭和五十年代というと、
「週休二日制」
 などという言葉は、会社にすらなく、学校は土曜日、半ドンで帰るというのが当たり前だったのだ。
「半ドン」
 などという言葉も、今では死語になっていることであろうが、その当時は、土曜日に昼までで学校が終わりというのは、画期的な気がしているくらいだった。
 ただ、木工細工に明け暮れてはいたが、なかなか満足のいくものを完成させたことはない。そのうちに、
「半ドンの午後を趣味として楽しむ」
 ということに意義があるという風に思うようになって行ってしまったのだ。
 それはそれで悪いことではない。
 完成するかどうかは二の次で、集中して自分の中に自分の時間を作ることができるのが、嬉しかったのだ。
 中学に入ると、木工細工はしなくなり、何か一つのことを集中してすることはなくなってしまった。受験勉強の時は、それほど集中する時間が苦痛に感じなかったのは、小学生時代の日曜大工が影響していたのかも知れない。
 中学高校時代は、今魔ら思い出そうとしても、何も浮かんでこない。
作品名:中途半端な作品 作家名:森本晃次