中途半端な作品
「二年生の時よりよかったよ。聞いてみるかい?」
と言われたが、
「いや、今回はいいや。別に反省点は自分でも分かっているつもりだし、今回は自分でも七位くらいがいいところだろうと思っていたので、ショックもないしな。予想通りだったということさ」
というと、
「そうそう、それでいいんだ。もう君にとっては、さっきのことであっても、過去になっているんだろう?」
と聞かれて、
「ああ、でも悪い過去ではない。いい思い出さ」
というと、
「そうか」
と一言だけ言われた。
それが、中学時代の中で一番の想い出と、爪痕だったと思っている。
中学時代が終わって、あの時の嫉妬心が、なくなってきたかと思ったが、実際にはそうではなかった。ただ、
「自分には嫉妬するものがない」
と思っていただけであり、高校時代までに、その対象があったわけではなかった。
「そもそも、嫉妬心というのは異性との関係において抱くものだ」
という当たり前のことを忘れていたと言ってもいい。
それをいまさらのように思い出させてくれたのが、聡子だった。
ただ、この時に感じた嫉妬は、まず、
「聡子に対しての賛美の声」
だったのだ。
自分が誘いかけて入らせた人が、自分よりも上にいるということに、まるで小学生の頃に感じた嫉妬心がムクムクとこみあげてきたのだった。
「もう、中学の弁論大会で、あの感情からは卒業したはずだったのに」
と思うと、自分がまた子供の頃の感情に戻りつつあるのではないかと思わずにはいられなかったのだ。
「どうしてなんだろう?」
と考えてみるが、分からない。
「自分に限界を感じたからであろうか?」
とも思ってしまったのだ。
だが、嫉妬という言葉の本当の意味を思い出してみた。
「男性が女性に、あるいは女性が男性を好きになった時、その人を自分が独占したいという気持ちがあれば、それが嫉妬というものだ。」
ということではないだろうか。
「つまりは、嫉妬は独占したいという気持ちの具現化のようなもの」
という意味であった。
また、辞書で調べてみると、
「三社関係において、自分自身は愛する人が別の人に心を寄せるのを恐れ、その人をねたみ憎む感情である」
と書かれていた。
こちらは、三角関係の縺れというものであり、最初の解釈とは少し違うのだが、結果として、
「独占したいと思うこと」
という解釈には変わりはないだろう。
独占という意味を考えれば、それが男女関係である必要はない。独占したいものには、まわりの目の注目であったり、名誉欲などの欲である場合もある。だから、中学時代の川原の感情は、人の注目を独占したいというものなのだが、そこまで考えてみると、もう一つ違った考えが生まれてきた。
それは、
「自分が注目を集めることで、他の人にヤキモチを妬かせたい」
という感情である。
つまりは、自分が人に嫉妬しているのではなく、自分が嫉妬されたいという気持ちとが同居しているということだ。
これも男女関係にも言えることだった。
そういえば、僕が思春期になって、異性を感じ始めた理由というのは、
「自分が女の子と一緒にいるところをまわりの人に見せて、羨ましいという気持ちにさせたい」
ということだった。
それはきっと、自分の中で、友達が女性と一緒にいるのを見て。
「羨ましい」
と思ったからであり、これは小学生の時に感じた、症状やトロフィーを貰っている人を見た感覚と同じではないだろうか。だから、
「羨ましいと思うくらいなら、まわりから羨ましいと思われたい」
という気持ちの表れなのだ。
この気持ちが前章の最後の方の文章に現れている。
「嫉妬の彷彿」
というと、どうなのかと思うが、自分の中で、
「何かを彷彿させた結果が嫉妬だった」
ということだということで、敢えてこの言葉を使いたいと思うのだった。
という言葉に現れているというころであった。
では、一体何かを彷彿させる何かというのは何であろうか?
その時の笠原には分かった気がした。
「その何かというのは、自分自身のことである。つまり、自分自身に嫉妬するという自分を頭の中で描いていた」
ということだ。
しょせん、嫉妬というのは妬みであり、自分が嫉妬したくない一心でまわりに嫉妬させようと思うのは、結果として自分が嫉妬しているからだとも言えるだろう。
そう思うと、
「自分自身を嫉妬させるくらい、自分が一番でいたい」
という気持ちの裏返しが嫉妬心だとするならば、嫉妬心というのも、一概に悪いものだとはいえないのではないだろうか?
それを考えると、嫉妬というものが、恥の裏返しだということも、理解できるような気がしてきた。
「恥を描きたくない」
という思いは、自分を一番に持っていきたい嫉妬心とは反対だからである。
恥を描くことで、自分自身を最低の底辺に持っていきたくないという思いが、嫉妬心を掻き立てるのであろう。
吊り橋効果
石松聡子という女性がここまで評判のいい小説を書けるようになるとは思ってもいなかった。気軽な気持ちで進めた文芸サークルへの入部を、今さらながらに後悔しても始まらないが、ここまで嫉妬するようになったのはなぜだろう?
なるべく他人の書いた小説は読まないようにしていた。
「自分の作風がブレるからだ」
と、恰好のいいことを言っていたが、人の作品を自分の作品と比較してしまうことが嫌だったからだ。確かに人の作品を読むと作風がブレるとはよく言われるが、しょせんはお互いに素人、しかも、プロになるわけでもないので、盗作でもない限り、作風が似ているくらい、関係はないだろう。
「ジャンルが被ったというだけのこと」
ということで、何とかごまかせる範囲である。
だが、どうしても自虐的な性格であることから、自分の作品よりもいい作品だと感じることが怖かったのだ。
「認めたくない」
という思いが強くなり、自分の中にある嫉妬心が湧いて出るのを感じたからだ。
この場合の嫉妬は、
「自分が恥を描くのが嫌だ」
というよりも、
「自分を恥だと感じる自分が嫌だ」
というものだった。
嫉妬を感じるたびにいつも思う、
「人と比較して何になるというのか?」
とである。
人と比較? そんなのは今に始まったことではない。絶えず人との比較をずっとさせられてきた。
小学生の頃の運動会、テスト、中学、高校での受験。
「別に人との比較ではなく、あくまでも自分との闘いだ」
と言われるが、いくら自分が頑張っても、レベルの高いところに放り込まれれば、少々頑張って記録を挙げても、全体的に高いのだから、同じ点数でも、順位は天と地ほどのさがあったりする。
受験などは、点数で決まるわけではなく、定員があって、上からの順位でその中に入らなければいけないのだ。しかも、合格ライン未満の次点であっても、不合格に変わりはない。最下位であっても、同じことなのだ。
だから、受験などでは順位は一切公表されないのだろう。だが、考えてみれば、合格したとしても、どの順位で合格したか分からない。