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中途半端な作品

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「小説を歴史を知らずに読むと、時代に置いて行かれているような気がして、歴史を勉強する。そうすると、歴史が追いかけてくるような気がして、もう一度本を読むと、歴史が追いついてきて、妄想が勉強に裏付けられたものとなり、小説を読むことが歴史の勉強お大義名分のように思えてくるんです。だから、他の人にも同じような読み方をしてくれるといいかなと考えています」
 と、説明した、
 これを聞くと、何となくイメージが湧いてきたのか、部長も訝しそうな表情にならなくなった。
 部長との話は、いつも長い。
 といっても実際の時間が長いだけで、感覚的にはあっという間である。
 それは小説を書いている時と同じ感覚で、
「二人とも、妄想しながら、話をしているからなんじゃないか?」
 と話したことがあったが、まさにその通りであろう。
「小説を書くことは妄想すること。妄想することは小説を書くということ」
 という話をしたことはあったが、その妄想という曖昧な解釈について、なかなか議論することはない。皆分かっているだろうと思っていて、実際には分かっていないということなのであろう。
「やっぱり笠原君と話をすると疲れるけど、充実はしているね」
 と部長は言ったが、笠原も、充実しているという言葉が一番嬉しいので、部長の意見と
気持は一緒だった。
 お互いに腹いっぱいの話ができたと思った笠原だが、ちょうどその頃には、実際に自分の作品も徐々に書きあげることができるようになってきた。今のところ短編ではあるが、三作品ほど書いてみた。自分ではオカルトのつもりで書いてみたが、人によって、どのように写るであろう。
 原稿用紙で、二十枚ほどなので、短編というにも短いくらいかも知れない。とりあえず、少しずつから始めることが大切だと思った。
「とにかく書き始めたら、作品に不満があろうがどうしようが、最後まで書き切る」
 というのをモットーとしていた、
 その感覚がなければ、今までのように、
「こんな作品だと完成しても、完成したと言えないものになってしまう」
 と思っていたが、そんなことを考えていたら、いつまで経っても書きあげることはできない。
「そもそも、完成したかどうかを下手くそだと思っている自分が勝手に判断してどうするんだ?」
 という思いもあった。
 また、
「下手くそな自分の判断ではなく、他人に判断してもらうとしても、結局は自分の作品なんだから、自分で自信が持てなくて、どうするというのだ。書きあげる自信がないんだったら、最初から書かなければいいんだ」
 という発想もあった。
 最初の頃は前者だった。自分が下手くそだという自虐を持っていたのだが、途中から、誰のために書くんだと考えた時、自虐である必要などないと思ったのだ。
 小説を書くということに対して、よくハウツー本などを見ていると、
「自分で書きたいことがあれば、思ったことを書けばいい」
 であったり、
「小説に書き方の細かい決め事はないので、文章作法などが間違っておらず、放送禁止用語や差別用語のようなものが含まれていないかぎり、書き方は自由である」
 などと書かれているのだが、読み進んでみると、読者に対しての忖度や、読者を見据えての書き方など、最初の説明とは矛盾したハウツーになっているのを感じたりしたので、あまりハウツー本を信用しなくなった。
 そもそもハウツー本と言っても、文章の書き方というだけのものではない、それだけだったら、実際に小説を書こうと思っている人には消化不良に感じられるだろう。
 そういう意味で、小説の書き方というものは、さらにその先を見据えて、
「小説家になるには?」
 であったり、
「小説で、賞を取るには」
 というものが大きなテーマとして隠されている場合が多い。
 だから、そのための参考書として、当時の受験生がよく読んでいた、
「傾向と対策」
 というべきものだったのだ。
 ただ小説を書いて、書けるようになったからといって自己満足に浸っているだけだったら、別に読者を意識する必要もないだろう。しかし、普通の人はそこでは終わらない。一度や二度は誰だって、
「小説家になりたい」
 と考えるのは当たり前のことだ。
 だが、小説家を目指していると、いろいろと矛盾を感じるようになってくる。
 小説家を目指すには、どうすればいいかという本は、大きな本屋に行けば、何冊か置いてあるが、情報はそれくらいしかない。小説家になろうとすると、そういう専門の学校などもほとんどなく、ネットもない時代に、情報などまったくなかった。
 新人賞に応募しても、選考基準基準についてもまったく公開されず。
「選考に関しての問い合わせには、一切お答えできません」
 であったり、
「原稿はお返しいたしません」
 などと、まったくの応募者をないがしろにした扱いで、さらに、落選しても、作品に対しての批評も、自分がどれくらいのレベルなのかも一切分からない。そんなブラックと言えるような闇だらけの選考で、何が分かるというのだろう。
 次第に時代が進んでくると、一次審査というのが、審査というわけではなく、小説家としてデビューできなかった中途半端な連中を安い金で雇って、文章体裁が整っているかどうかというだけの審査で、一次審査の通過が決まる。
 確かに応募した作品の体裁は必要なのだろうが、
「まるで制度のないふるいに掛けられただけのそんなものだから、そりゃあ、非公開にもするよな」
 と思えるだけのものだった。
 そんなのが文学賞なのだから、何ともいえない。
 同じ作品を、他の文学賞に応募すれば、それが新人賞を取ったなどという笑い話がまかり通っていたのかも知れない。
「二重投稿は許されないと言っていても、どうせ、一次審査などは、下読みのプロと呼ばれる小説家になれなかった出版社から安い金で雇われた奴隷のごとき連中しか読んでいないのだから、他の出版社の新人賞に出したって、誰も分かりっこないわけだ」
 と言えるに違いない。
 そんな新人賞の審査方法を知ってしまうと、ある程度興冷めしてしまった。
 もちろん、文学新人賞に限ったことではないだろう。
 芸能界におけるオーディションだって、一次審査は書類審査だけではないか。写真と履歴を見ただけではねられる。
 もっとも、これは就職活動にも言えることだ。出版社を狙い撃ちした笠原だったが、その時に身に染みて感じたことだった。
 その後の審査だって、どこまで見てくれているのか分かったものではない。文学新人賞だって、一次審査から最終審査までの間にどれだけの関門があるのかは、規模によって違うだろうが、少なくとも一つはあるはずだ。
 出版社系の新人賞は月刊小説誌に応募が乗っているが、そこには選考委員が顔入りで載っているのが普通である。
 有名なミステリー作家だったり、女流恋愛作家、あるいはSF作家などの著名な人が審査員として名を連ねているが、何百という応募の中から、選考された五つくらいの作品の中から、新人賞が選ばれる。
 つまり五人になるまでに、誰からどのように審査されたのか、分からないということだ。しかも小説家になったとしても、主導は出版社。自分が書きたいものが書けるかどうか、分からないのだ。
作品名:中途半端な作品 作家名:森本晃次