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昭和から未来へ向けて

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 基本的に一人でいることが好きだったはずの久則が、大学時代だけは、なぜにあんなに人と一緒にいる時間を大切にしようと思ったのか、高校時代までの自分が、よほど暗くて、孤独を味わってきたのだと思ったからではないだろうか。
 それは、何かの呪縛のようなものに雁字搦めにされたかのように思っているからなのかも知れない。
「大学に入ったら、友達をたくさん作りたい」
 と思ったのは、高校生の頃までの時間を取り戻したいいという意識があったからに違いない。
 そんなクラシック喫茶に最初に入ったきっかけは、やはり、
「ゆとりのある時間を過ごしたい」
 という思いがあったからだろう。
 では、ゆとりのある時間とはなんだろう?
 高校時代まで、いつも孤独を感じていたこともあって、一人になるのが怖かった。だから、大学の入学式の日から、積極的に人に話しかけ、友達を強引に作ってきた。
 会話の内容などは、どうでもよかった。逆に些細な会話の方が楽しかったと言ってもいいだろう。意味のない会話の方が、後腐れなくていいように思えた。不思議なことに、些細な会話の方が覚えていたりするもので、覚えているというよりも、ちょっとしたきっかけですぐに思い出すと言った方がいいだろう。
 会話というものが、どんなものなのか、その時初めて分かった気がする。
 まずは、時間を感じさせないということ。これは高校時代に集中して勉強している時、それが身についたと自分で感じる時は、実際には三時間くらいの勉強時間であっても、感覚的には一時間も経っていないという感覚であった。それが集中しているという証拠であると気付いたのは、大学入試に成功した後のことだった。勉強をしている時は、無我夢中で、そんなことを考えている余裕などなかったに違いない。
 さらに会話をしていると、相手のことを信じることができる気がするようになるということであった。それまでは、
「人をあまり疑ってはいけない」
 という思いがあったのは、孤独を怖いものだという意識が潜在的にあったからなのかも知れない。
 人をあまり信じ込みすぎるのがいいのか悪いのか、その頃には分かっていなかったが、信じてみようと思える人がいないというのも、孤独の恐怖の一つではないだろうか。会話ができる相手ができるというだけで、充実した気分になれるのは、いいことだと言えるのではないだろうか。
 大学生になってからというもの、毎日のように友達を増やしていった。
 その中には、まったく想定外のことを考えている人もいて、
「俺、変わり者だから」
 と言って笑っている。
 高校時代であれば、顔を背けていたかも知れない相手なのに、大学に入って知り合ってみれば、
「自分の世界が色がったような気がする」
 という、正反対の考えを持つようになった。
「これをポジティブ思考というんだろうか?」
 と思ったが、まさにそうだろう。
 高校時代がネガティブだったと、ハッキリ言えるほどの意識はないが、孤独というもの自体にネガティブな要素があるとするならべ、
「孤独を二度と味わいたくない」
 と思うのも当たり前のことだろう。
 大学生になって、できるであろう友達は、
「自分と同類の人ばかりなんだろうな」
 と、思っていたが、実際にはそうではなかったようだ。
 自分の知らなかった世界を広げてくれる相手ばかりだったのだが、その時には友達の本質というものを知らなかったのだ。
 勢いに任せて友達を作りまくってはみたが、その中での本当の友達というと、そんなに多くないことに気が付いた。
 では、一体どういう人が本当の友達なのかということを考えていると、
「やはり最後には同類と思しき人ばかりになってしまう」
 と感じた。
 その理由は、
「世界が広がったと言っても、自分から足を踏み入れたわけではなく、相手が示してくれただけのものなので、結局は自分が入り込むことはない。軽い気持ちで入り込もうとすると、せっかく相手が広げてくれた世界だったはずなのに、足を踏み入れると、まるで電流が走ったかのように、ビックリさせられ、高圧電流によるバリアが敷き詰められているかのように思えるのだった」
 と感じることだった。
 だから、友達ができたと言っても、顔見知りという程度の連中まで友達と言っていいのだろうかと思うと、実際の友達は、想像以上に少ないということに気づくまで、少し時間が掛かった。
 小学生の頃、芸術的なことをすべて諦めてしまったことを思い出していた。特に一番最初に諦めたのが音楽だったことを思い出すと、今になってクラシック喫茶にゆとりを感じるというのも、何かおかしな気がしてきた。
 だが、考えてみると、小学生の頃に諦めた音楽というのは、自分で楽器を奏でることであり、そのために楽譜を見ることだった。むしろ、クラシックなどの音楽を聴くことにはまったく抵抗がなかったということを、ふとしたことでもなければ思い出さないようになってしまったのはどうしてだろう。
 だが、いまさら遅いのかも知れないが、小学生の時にもう少しだけでも、楽譜を勉強したいと思ったり、楽器を弾くことに抵抗がなければ、いまさら遅いなどという考えはなかったかも知れない。
 それでも、クラシックを、ゆとりと思えるようになったのは、クラシック喫茶のおかげだと言ってお過言ではない。
 クラシック喫茶を最初に見つけたのは、自分ではなかった。
「あそこに白壁に黒い珊さあるようなモノクロのムード漂う喫茶店があるんだけど、行ってみようか?」
 と誘われたのが最初だった。
 友達はクラシックに造詣が深かったわけではなかったので、二、三度一緒に来ることはあったが、常連になることはなかった。だが、久則は、
「大学に入ったら、常連の店をいくつか作りたいな」
 と思っていたこともあり、クラシック喫茶がその筆頭であった。
 元々、落ち着いた店を常連にしたいという思いもあった。常連になる店は、常連同士仲良く会話ができて、しかも、会話が弾むような店を探していたのだが、この店では沢が数ことは厳禁だろうから、一人でゆっくりと佇む時に使ったり、本を読む時に使ったりできる店であることに違いはない。
 ただ、気になったのは、
「こういうこだわりのある店の店主というものには、偏屈な店主というのがお決まりではないか?」
 ということであった。
 しかし、この店のマスターは、そんなことはなかった。こだわりは確かにあるのだが、偏屈ということはない。
 こだわりのある店には偏屈な店主が多いという思いは、料理屋などにあることで、店主のいうことを聞かない客を追い出すというのをよくドラマなどで見ていたからに違いなかった。
「店主にこだわりがあるなら、客にだってこだわりがあるというもの、客のこだわりを無視する店主って、一体なんぼのもんしゃい」
 とばかりに思っていた。
 客にだって好き嫌いはあるし、自分の好きな味にしてもらおうと考えるのは当たり前であり、何と言っても、お金を払うのは客ではないか、お金を払うからと言って、すべてに優先するとまでは言わないが、お金を取っている方の言い分を一方的に押し付けるというのはいかがなものだろう。
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次