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昭和から未来へ向けて

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 思春期が終わったのか終わっていないのかが曖昧な時期というのが、一番精神的にも肉体的にも不安定だったかも知れない。
 将来に対して、あの時ほど夢を見た時期もなかったし、不安に苛まれた時期もなかったのではないだろうか。
 学生時代には、必ず春になると進級、進学をすることになる。節目があるのだ。
 しかし、社会人になってからは、会社を辞めたり、転勤や部署替えなどがない限り、節目というのはないものだ。
 出世したとしても、同じ仕事に対して立場が変わったり、仕事内容が変わるだけである。もちろん、大きな変化には違いないが、自分の中で感じている節目とは若干違っているのだった。
 そういう意味で、学生時代の一日一日と、社会人になってからの一日一日ではまったく違う。さらに、一か月、一年という単位でもまったく感覚が違っているのは、社会人になってからのことだった。
 学生時代は、いつもずっと長かったと思う。後から振り返っても同じであった。
「三十代になれば、あっという間だぞ」
 と言われたかと思うと、今度は十年度、
「四十過ぎたら、本当にあっという間だ」
 と言われるが、まさにその通りだった。
 同じ毎日のはずなのに、なぜこんなに違うのか分からない。毎日を別に変化もなく過ごしているように思っているのに、どうしてなのだろう?
 自分の意識の外で、余計な感情が渦巻いていたからではないだろうか。そう思っていると、今では、
「さっきのことが、昨日のことなのか、一昨日のことなのか分からないくらいだ」
 というほどになってしまっている。
 それをマンネリという一言で表してしまっていいのだろうか?
 久則は、大学を卒業するまで、関西[福岡1]に住んでいた。父親が野球が好きで、会社から、野球観戦の入場券を貰ってきたということで、家族でよく言っていた。関西の神戸寄りにすんでいたので、当時はよく今はなく、阪急西宮球場に行ったものだった。阪急電車で西宮北口駅で下車し、五分ほどで西宮球場につける。
 阪急の西宮北口駅というと、今では全国的に見ることもできないであろう珍しいものが当時はあったのだ、西宮北口駅というと、梅田と三宮を東西に結ぶ神戸線と、宝塚から今津までと結ぶ今津線とが重なっていた、
 しかも、立体交差をしているわけではなく、何と平面交差をしていたのだ。
 路面電車などでは、交差点で平面交差のところを見ることができるが、普通の鉄道では実に珍しかった。久則がちょうど高校を卒業するくらいの頃に、平面交差はなくなり、今津線を駅で分断し、今津と西宮北口、西宮北口から、宝塚と、二つの路線が存在しているかのように見えた。
 さらに、西宮球場も今は存在しない。実際に跡地に行ったわけではないが、なくなっていると聞いている。ちょうど時代が昭和から平成に変わる頃だっただろうか。阪急ブレーブスという球団が消滅したのだった。
 実はちょうど同じ年に、在阪球団の一つが姿を消した、難波を起点とした南海電鉄が所有していた南海ホークスである。
 南海がフランチャイズにしていた大阪球場もあ何度も言ったが、あれほど、都会のど真ん中にある球場も珍しい気がした。隣を南海電車の難波駅、そして、ちょっと行ったところに、大阪の高速道路が通っている。隣には大きなショッピングセンターもあったりして、どこに球場があるのか、ハッキリと分からないくらいであった。
 家から大阪球場までは、一時間くらい見ておけばいいだろうか。梅田に着いてから地下鉄で難波まで、そこから休場はすぐだった。
 ただ、難波駅というのは、いつ行っても分かりにくかった。何しろ、地下鉄が三つ、そして私鉄が、南海と近鉄(奈良線)と、これも在阪球団を主有している私鉄会社だった。
 近鉄のフランチャイズにも結構行った。当時は日本生命野球場、通称日生球場が主だった。
 実際には藤井寺球場があったのだが、あちらは、住民訴訟の問題で、ナイター照明をつけることができず、デーゲームしかできなかった。しかも、日没コールドの危険性の危険性もある。そういう意味では日生球場は、照明があってナイターができる球場だった。
 近くに大阪城が見える場所で、道を挟めば、大阪城公園になっている。この球場にも約一時間くらいかかっただろうか。こちらにも何度か行ったことがあった。
 ここももうすでになく、ショッピングセンターになっていると聞いた。大阪環状線の森ノ宮駅から行けるのだが、そういえば、日生球場に行っている頃の環状線には、大阪城公園などという駅はまだなかった頃ではなかっただろうか。
 考えてみれば、昔よく見に行った野球場で、現存しているところは、阪神甲子園球場くらいだろうか。
 残っているという意味でいけば、京都の西京極球場(わかさスタジアム)も残っているといえば残っている。阪急ブレーブスの準フランチャイズであった。
 だが、やはり一番よく出向いていったのは、西宮球場であった。家からであれば、三十分も見ておけば余裕なくらいで、今でも、西宮球場近くの光景は目を瞑れば思い出すことができる。

                 駅前の喫茶店

 大学を卒業してから、福岡に移り住むことになったので、もう関西に行くことはほとんどなくなってしまったが、野球観戦というのが、学生時代の、そして関西の想い出として、結構強く残っているものであった、
 ただ、印象に深かったのは、大学の頃に阪神が優勝したことだった。十九年ぶりということでかなりの賑わいだった。
「カーネルサンダースの人形を抱いて、道頓堀川に飛び込む」
 というのが、恒例になったからか、福岡でホークスが優勝した時も、ファンが、カーネルサンダースを抱いて那珂川に飛び込むという光景があったくらいだ。
 ホークスも福岡の球団としての優勝は何年ぶりだったのか、その熱狂はすごいものだった。
 だが、やはり関西の応援はまったく違う。
 いや、途中から野球を見る年齢層と、野球を見る観戦模様は、まったく変わってしまったというのもあるだろう。
 昔は、今のように女性ファンなどほとんどおらず、統制の取れた応援などもなく、せめて、鉦や太鼓による声援があったくらいだろう。途中から、エレクトーンであったり、トランペットなどの楽器が使われるようになったのは、高校野球の影響であろうか。ハッキリとは分からない。
 本当に昔の応援はシンプルで、ちょっと気になるのは、サラリーマン風の人たちが背広を着て、ビール片手に、ヤジを飛ばしていることだった。辛辣なヤジも結構あり、
「本当に下品だな」
 と思った記憶もあるが、それも今は昔、見ていると結構楽しそうに見えていた。
 あくまでも今から思えばということであり、それだけ野球観戦もイメージが変わってしまった。
 女性ファンが増えたのはいつ頃からのことであろうか?
 それまで女性ファンが野球を見に来るというと、ファンの選手がいたり、彼氏が野球好きで、デートの一環できていたりという程度しか思いつかないが、今では女性ファンが一人でも見に来ていたりする。何が変わったというのだろう。
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次