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昭和から未来へ向けて

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「県でナンバーワンの速球投手」
 あるいは、
「中学球界屈指のスラッガー」
 などと言われて、意気揚々と入学してくるが、全国レベルを知らないと、自分がその中ではたいして目立つ存在ではないということをすぐに思い知らされる。
 そうなるとどうだろう?
 他の選手に負けないようにと、無理をする選手がほとんどだ。何しろ、
「努力は必ず報われる」
 と思って中学までやってきて、頂点に上りつめたのだから当たり前のことだろう。
 しかし、その無理がたたって、選手生命を絶たれるとどうなってしまう?
 野球をやっているから、授業料も免除である。野球ができなくなって退部を余儀なくされると、そのあとは誰も面倒を見てくれない、いわゆる、
「野球での落ちこぼれ」
 になるのだ。
 家族やまわりからは期待されていただけに、精神的な急落を高校生に背負わせるのは酷というもので、そこから先はいわずと知れた、
「転落人生まっしぐら」
 である。
 しかも、受け入れた学校側も、
「野球留学で入ってきた生徒なので、勉強に追いつけなくなったら、普通の生徒と同じだ」
 という風にしか見ていない。
 まあ、それは当然であろうが、学費免除も打ち切られ、勉強も追いつかない。そうなると、自主退学するか、学校でグレるかしかないだろう。それを生み出した自分たちの都合による「スポーツ留学制度」を顧みないことで、今では野球に限らず、ほとんどのスポーツで強豪校による社会問題になっていることは周知のことである。
 久則はそんな社会の仕組みをよく分かっていた。
 なまじスポーツができて、
「いずれは俺もスポーツ留学を受けて、世界的な人気のある選手になりたい」
 と思っている人には見えていないかも知れないが、ほぼほぼ、スポーツ留学の闇を皆分かっていて、見て見ぬふりをしているだけなのであろう。
 そんな社会に子供でありながら嫌気がさしている久則は、スポーツというもの全体が嫌だった。苦手だということの言い訳にしていると言われればそれまでなのだろうが、それだけではなかった。
 もちろん、マスコミなどのニュースや、テレビドラマなどでの影響もあるだろうが、実際に自分の身近にもいたりした。
「野球部でレギュラーを目指す」
 と言って、頑張っていた生徒がいきなり、学校に来なくなったりした。
 生徒が学校に来ない。部員が練習に出てこないのであるから、普通なら先生が心配して家に行ってみたりするのだろうが、もうその頃には、生徒一人に構っている時代ではなくなっていた。
「部員の一人の落ちこぼれが来なくなったからと言って、いちいち気にしていたら、何もできない」
 などと、顧問が言い出すほどである。
 自分の生徒を平気で落ちこぼれというなど、今の時代ではありえないことであるが、当時としては、
「ついてこれないものを、落ちこぼれと言わずに何と言えばいいのか?」
 ということになる。
 確かに教師からすればそうなのだろうが、それまでは、
「落ちこぼれを救わなければいけない」
 という風潮が社会的にあったはずなのに、いつの間にか変わってしまっていた。
 さらに、学校崩壊は続いていく。
 クラスで苛めが目立ってくる。その苛めも以前と違って陰湿なものが多く、以前であれば、苛められている子供にも若干の問題があり、苛めている方が、
「その反省を促す」
 という視点もあったのだろうが、そのうちに視点が変わってきて、
「苛めることに理由なんかない。苛めたいやつがいるから苛めるんだ」
 という、メチャクチャな理由にならない理由が蔓延ってくる。
 それは社会問題になり、実際に自殺者が増えて問題になっても、解決されることはない。解決というのは、何をもって解決というのか、苛めがなくなれば解決なのか。自殺がいなければ解決なのか。分からなくなってしまう。
 そんな世の中で、今度は、先生よりも生徒の方が立場が強くなる。
 昔からあった体罰というものが、今度は過度な教育の行き過ぎとして大きく問題になってくるのだ。
 ちょっと、生徒を叩いただけで、すぐに、
「暴力教師」
 と言われる、
 それをいいことに、以前では考えられなかった
「生徒による教師への苛め」
 が横行する時代になるのだ。。
「生徒に手を挙げれば、暴力教師だぞ」
 と言われれば、何もすることができない。
 これは、今の世の中に蔓延る、
「逆セクハラ」
 などにも言えることであるが、
 女性側が、
「あの上司にセクハラを受けた」
 と言えば、上司は世間から推定有罪の見方をされ、誰も擁護してくれない時期があった。
 今ではさすがに、逆セクハラや逆パワハラなども多いことから、そちらも疑われるが、セクハラ、パワハラが問題になった頃には、
「まさか、訴えた方がウソを言っているなどということはない」
 と思われていたはずだ。
 何しろ、まだセクハラというのがハッキリと市民権を受けていなかった頃に、セクハラを訴えるのは勇気がいることだからだ。一歩間違えれば、
「上司に対して反抗した社員」
 ということになり、却ってまわりからひんしゅくを買い、社会からも隔絶されてしまう可能性があるから、よほどの確信がないと、声を挙げないはずだと思われているからである。
 それを思うと、声を挙げるのが、正義と言われる時代があったことも事実だ。
 声を挙げれば、セクハラが確立し始める頃には、
「勇気を持って告白した」
 ということになるからだ。
 その間隙をついて、人を陥れる輩に対しては世間ではなかなか気づかないものであり、冤罪が蔓延った時代もあった。
 今ではそれも考慮されているだけに、コンプライアンスの問題は、デリケートであり、推奨はするものの、あまり過剰すぎるのも問題だという話もあるが、さすがに、一般的ではないだろう。
 そういう意味で、時代はどんどん変わってきている。
 何が正しいのか、時代によって変わってくるというのも、よくよく考えるとおかしなものであるが、、逆に言えば、時代が生き物だと思えば、不思議でも何でもない。
 なかなか時代や世間を一つの生き物として捉えることは難しいが、そうでなければ、時代の波に押されてしまうというのが今の世界である。
 ただ、そんな世の中というのも、限界があるという考えもある。
「ブームなどは、何年か周期でやってくるものだ」
 という考えもあったりして、流動している世界に限界がないわけではなく、行きつくところまで行けば、再度同じところを回っていると言えるのではないだろうか。
 ただ、科学の発展というものがあるだけに、まったく同じところを回っているわけではない。似てはいるが、若干違った考えが含まれているのは当たり前のことで、それも、文明というものを、人間が作るものだと考えれば、それも当たり前のことであった。
 もちろん、四十年以上も前に、今の世の中がどうなっているかなど分かるはずもない。あの頃はあの頃でよかった部分、悪かった部分が存在し、いい部分も悪い部分も受け継がれていくものだった。
 世の中というものが、そんな時代を重ねて成り立っているということを、高校生くらいになると分かってくるようになった。
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次