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昭和から未来へ向けて

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「これくらいのことでケガなど起こるわけはないはずだったのに」
 と思うような、些細な時にケガをしていたりしたものだ。
 そんな時というのは、十分に注意をしているつもりになっているだけであって、
「こんな時にケガをする要因が存在するわけはない」
 と思った時に限って、ケガをしている。
 それを思うと、それまで感じたことがないくせに、言葉だけを意識していた、
「油断」
 というものが自分の中にあると思うようになっていた。
 それまでは、油断というのはあくまでも感覚であって、
「気を付けてさえいれば、油断などありえない」
 という思いの裏付けのように思っていた。
 だが、裏付けというのは、あくまでも、
「言葉を使うだけで、まるで自分の考えるのが億劫だとでも言いたい時の言い訳にしているだけのような気がする」
 と思うようになっていた。
 そういう意味では、小学生の頃、まるで定期的にケガをしていたのは、無数にある機会やタイミングの中で、定期的に訪れる油断に、ことごとく反応してしまったことで、ケガをしていたのであろう。
 ただ、この思いは逆にいえば、言い訳にも使えるというもので、
「定期的にケガをしている方が、たまにケガをして、そのケガが、大けがに繋がったことを思えば、定期的なケガというのは、油断からのもので、そもそも危険が隣り合わせでもなんでもない。だから、ケガと言っても大げさなことになることはない」
 と思うようになっていた。
 そんな小学生の頃だったので、跳び箱の記憶だけがその後の自分に残り、ケガをすることはないと思いながらも、スポーツ全般に、
「怖いものだ」
 というトラウマを残すようになった。
 だから、自分からスポーツをすることはなかったのであり、恐怖というものを言い訳にしているというところまでは理解していた。
 一方、芸術に関してであるが。小学校の頃というのは、その目覚めに近いことを押しててはいる。一番積極的なのは、音楽ではないかと思う。
 これは、久則の私見であるが、芸術の中で、絵画、彫刻などの作品や、文芸関係に比べて、音楽の授業はだいぶ熱心な気がしていた。
 音楽の授業というといくつか種類があったような気がした。まずは、合唱を行ったり、今はリコーダーと言っているのか、当時の縦笛、そしてハーモニカ、カスタネットなどといった楽器を奏でることも授業の中で積極的に行っていた。
 一年に一度、父系を招いての、音楽会なども催されて、皆それぞれに楽器の担当を担い、少年少女でオーケストラを俄かに組んでいたのだ。
 そのために必要なのは、楽器を演奏する技術と、もう一つ大切なのは、楽譜を読める力であった。オーケストラなどは、楽譜を読んで演奏しながら、コンダクターの指示によって、演奏を行う。それが基本だった。
 しかし、久則は三年生の時点で、すでに楽譜が分からなくなり、落ちこぼれて行った。その頃から音楽に対して興味を失っていた。
 それでも、楽器を演奏するという以外の音楽の授業おあったので、その時は結構好きな時間であった。それは、有名作曲家の作曲した音楽を聴くという、音楽鑑賞の時間であった。
 その時間だけは、同じ音楽の時間であっても、別の授業を受けている気がしていた。趣味として音楽を奏でることに対しては、早々に挫折したが、音楽鑑賞に関しては、大人になってからでも、レコード、CDを聴くということで、楽しい時間となっていたのであった。
 他の芸術の時間として、図工の時間があった。
 この時間は、絵を描いたり、彫刻などの工作を行ったりと、
「芸術的な作品を生み出す」
 という意味では、実は一番、芸術を賄う時間としては好きな時間であった。
 ただ、絵画に関しては、まったくできない時間であった。
 しかし、工作に関しては好きだった。特に木工細工などは結構好きで、当時の小学生時代の土曜日というのは、休みではなく、午前中だけ授業が行われるという、いわゆる、
「半ドン」
 という時間であった。
 給食が出るわけではなく、四時限目の授業が終わると、そのまま下校ということになる。
 小学生の頃というと、すぐに空腹になる頃であって、急いで帰ってから、家出昼食を食べることになる。
 高学年くらいになると、自分で勝手に何かを作って食べるということも多かった。
 母親が買いも二から帰っていないということもあり、下ごしらえをして、用意しておいてくれた食材を使っての調理はそれなりに楽しかった。
 一番好きだったのは、タコ焼き機を用意してもらっていて、下ごしらえの小麦粉と卵などを混ぜた銀のボウルに入った粉と、切っておいてくれた食材であるタコや、天カスのような材料を使ってのたこ焼きづくりは、土曜日の昼食の恒例となっていた。
「よく飽きないね」
 と言われていたが、飽きることはなかった。
 これが、自分の性格だとずっと自覚していたことが、後述に出てくるのだった。
 たこ焼きを食べた後には休憩をして、その後に、庭になったところで、木工細工をすることにしていた。家にあった大工道具、釘やハンマー、のこぎりなどを使って、スーパーの奥にあった木材のコーナーで木の板を買ってきて、木工細工を楽しんでいた。
 基本的にうまく完成させることができた記憶はあまりないのだが、久則にとって、これが人生最初の、
「趣味の時間」
 だと言えるのかも知れない。
 木工細工は結構難しかった。本当であれば、設計図のようなものを作り、長さもしっかりと図って綺麗に切り口も揃えなければうまくいくはずもないということが分かっているくせに、設計図を作ることはしなかった。
 それは今でこそ思い返しても不思議に思うのだが、設計図を書かなかったのは、敢えてのことであった。
 設計図を書いて細かく計画を立てて、行うということを、どうやら毛嫌いしていたところがあった。
 あくまでも、感性でできることを目指していたような気がする、それは、他の一般的なやり方に対しての違いを自分で絞めそうという、自己顕示欲の表れのようなものだったのではないかと思うのだ。だから、基本的にうまくいく方が難しいというものであったが、それでも、趣味の時間を持てたことが、久則にとって、嬉しかったことは間違いない。
 さらに文芸の時間ともなると、今度は作文であったり、読解力というべきか、読書力であった。どうしても、文章ではセリフばかりを先に読んでしまうくせがあったのだが、それが、テレビによる影響であることを、子供の頃には意識していなかった。
 現在のように、ネットでの情報提供などまったく存在しなかった時代である。やっと、テレビが全盛期を迎えた頃だった。何しろ、その十年くらい前までは、カラーテレビがない家が多かったくらいだ。
 昔の部落と呼ばれるような貧困地区には、テレビのない家庭も結構あり、ニュース映像が生中継でゲリラ映像として映された時などは、テレビを持っている人の家に集まって、皆が見ていたものだ。
 まだ子供だった自分たちには、
「好きな番組がなくなって、しかも面白くもない、まったく進展しないテレ部放送を見て、何が面白いんだ」
 としか思っていなかった。
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次