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昭和から未来へ向けて

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 自分のような人間が世の中にはたくさんいると思っていた。確かに結婚するのが、当たり前という時代ではあったが、結婚できずなのか、結婚をしないと思っているからなのか分からないが、実際に、一度も結婚をしたことのない年配の人も徐々にであるが増えてきていた。
 離婚する人も目立ってきていて、実は昔から多かったのかも知れないが、めだって感じるのは、自分が結婚適齢期に差し掛かったからなのかも知れないと思ってもいた。
 そういう意味で、出会いの場を提供するような会社が増えてきた。
 結婚相談所という言葉でもなく、少し違った形式の出会いの場が多種多様に増えてきたのもこの頃だろうか。
 社会的にも、バブルが弾けて、それまでとはまったく違った社会になってきて、それまでの常識が非常識だと思えるような時代に変わった。
 少々の変わったことは、許容範囲になってしまったり、他人のことを気になどしていられない時代に変わってきたのだ。
 それは決していい傾向ではないのだろうが、久則は、ある意味、時代を先行していたように感じ、
「孤独を孤独と感じなくてもいい時代」
 と考え、孤独を悪いことのように思っていた世の中が、やっと、自分においついてきたことを実感した気がしていた。
 そんな時代において、自分の中で、好きな人と嫌いな人という区別がつくようになってきた。
 今までは女性の中で嫌いになる人というのはいなかった。
「別れよう」
 と思ったとしても、それは嫌いになったわけではなく、自分が相手に飽きたからだと思っていた。
 しかし、実際には先に相手から別れを告げられた。それも、相手が自分に飽きたからだと重いことで、嫌いにはならなかった。
 ただし、
「裏切られた」
 という思いはあり、それがせめてもの自分の自尊心を失わない理由だったのだ。
 だから、裏切られたということには腹が立つが、嫌いになったわけではない、嫌われたと思うことが、女性を嫌いにはならないという自分の中にある自尊心というか、一種の誇りのようなものであることが、フラれ続けても、また人を好きになれるという活力に繋がっていると思っていた。
 その思いがなければ、フラれることにここまで固執することはない、自分が相手をふることはないという自負があるから、堂々と好きになることができた。
 それなのに、
「最近、酷い女に引っかかった」
 という事実があるだけで、久則にとっては、それがなくても、
「近いうちに同じ状態になっていたのではないか?」
 と感じるようになっていた。
 その一つに考えられるのは、
「自分が飽き性だ」
 ということを感じたからだった。
 子供の頃から、好きなメニューであれば、極端な話、学食でも、半年くらい続けても何ら問題なく、飽きるなどということはなかった。
 ただ、一旦飽きてしまうと、見るのも嫌だというほどに、身体が受け付けないという状態になっていた。
 まわりからは、
「そんなに毎日同じものを食べていて、よく飽きないな」
 と言われていたが、
「おいしいからな」
 と、当たり前の返事をしていた。
 ただ、それは本心から出た言葉であり、当たり前のことが本心から出てくると、それは本当の王道なのではないかと思わせるようで、相手は何も言わなくなってしまう。
「ひょっとすると、呆れているだけなのかも知れない」
 と思ったこともあるが、実際はどっちだったのだろうか?
「自分にとって、好きでもない人から言い寄られたら、どうなるんだろうか?」
 と思ったことがあった。
 実際に言い寄られたことはなかったが、仲良くなりかかったことがあった。あれは大学三年生の頃のことで、例の「会場」に行かなくなってから、数か月後くらいのことだった。
 大学で、いつもその人は講義室の一番前でノートを取っているような真面目な女性であった。
「一番前の席でノートを取っている真面目な女のK」
 という意識はあったが、意識としては、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 だが、単位取得の関係上、どうしてお彼女のノートが必要になり、
「ごめん、ノート借りていいかな?」
 と声をかけたことがあった。
「いいですよ」
 という簡単な、社交辞令ですらない会話から、どうして親しくなったのか、自分でもよく分からなかったが、少なくとも相手が久則に興味を持ってくれたということであろう。
 久則は、女として興味を持つ相手ではないと思っていたが。どうやら、他の男性は彼女に大いに興味を持っていたようだ、それだけ、久則の女性を見る目は他の人と違っているということになるのだろうが、そんな彼女と仲良くなった久則は、まわりの男性の視線が痛いのを感じていた。
――どうしてそんな目で俺を見るんだ?
 と、最初は、それが彼女との関係からの、
「痛い目」
 であるとは思ってもいなかった。
 しかし、どう考えても、彼女と知り合ってからのことだったので、ビックリした。
「そんなに痛い視線を送るくらいだったら、自分から声を掛ければいいのに」
 と思ったのだが、どうやら、他の一般的な男性の視線からすれば、
「彼女は、一番声をかけにくい相手だ」
 ということのようだ。

              未来という今

 まわりの彼女を見る視線としては、
「プライドが高く、ズバズバを言いたいことを歯にモノを着せぬようにいうことのできる女性だ」
 ということで、
「何を言われるか分からない」
 という思いからの視線であった。
 つまり、まわりの久則に対しての視線は、
「話しかけたという事実というよりも、平気で話しかけることができる久則に対しての羨ましさと、ある意味の尊敬の念が含まれた妬みだ」
 ということではないだろうか。
 自分たちにはできないことを平気でできている久則に対しての感情を、まわりもどう示していいのか分からない。
 ひょっとすると、
「男性版の彼女」
 とでもいうのか、彼女に抱いていた思いを、久則の目を通して抱くようなイメージで見ているのかも知れない。
 久則は、彼女の視線よりもまわりの視線が気になってしまった。そのおかげか、彼女に対して飽きが来ることはなく、かといって、それ以上仲良くなることはなかった。
「好きになったわけではないけど、興味は湧いてきたような気がするな」
 と感じてくるようになった。
 まわりから見れば、付き合っているかのように見えたかも知れない。しかし実際に付き合っているわけではない。まわりの視線と自分の感情のギャップがある意味皆を欺いているかのようで、楽しくもあった。
 だが、結果的に間違っていたのは自分の方だった。
「やっぱり好きになっていたんだな」
 と思って、告白すると、
「その言葉を待っていたの」
 と言われて、どうして今まで気付かなかったのかと自分で後悔した。
 今までに感じたこともない充実感が自分の中で有頂天になっていった。
 それからの毎日はまるでお花畑にいるかのようで、
「躁状態って、こんな時のことをいうのかな?」
 と思うほど、何をやっていても楽しかった。
「箸が転んでも笑いが止まらない」
 と思春期の女の子などはよく言われていたが、
「まさかそんなことはないよな。少しオーバーなんだよ」
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次