小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

昭和から未来へ向けて

INDEX|20ページ/26ページ|

次のページ前のページ
 

 まずは、彼女として想像してみることにした。彼女として想像するには、表の方がいいということに最初から気付いていたわけではなかったが、確かにこの思いには間違いはなかった。
 歩きながら、駅に向かう時、商店街を歩いていたのだが、初めて来るはずの街なのに、懐かしさを感じるのは、
「彼女とのデートでいつも歩いている道」
 という感覚に陥ったからだった。
 デジャブという言葉があるが、
「それは、初めてくるはずの場所で、かつて来たことがあったような気になること」
 ということであるとすれば、このシチュエーションはまさにその通りだった。
 しかし、逆の意味でのいわゆる、
「逆デジャブ」
 であるとするとどうだろう?
 つまりは、初めてきた場所ではないという妄想を抱き、そこに隣に彼女がいる。
「これは未来に起こることを先読みして想像したことであって、ただ、それが想像ではなく、未来を見ているとすれば」
 などと感じていると、どんどんこの場所での感覚がシンクロしているようで、何度となく彼女と一緒に過ごすその場所で重なって見える自分がいたりする。
 さらにまわりの人を見ると、そこにいるのは、皆自分と彼女だけで、二人の時間を超えた世界がまるで、薄い紙が重なって、どんどん厚くなってくるような感覚と言えるのではないだろうか。
 考えてみれば、一枚の薄い紙をどんどん重ねれば、紙の束になるというのは当たり前のように思っているが、元は一枚のペラペラの紙である。
 こんな紙がいくら重なったとしても、百枚で、こんなにも厚くなるということにちょっとでも疑問を抱けば、疑問が気になってしまって、なかなか解消できないのではないかというレベルに感じられる。
「これは当たり前のことなんだ」
 という意識すらないままでいるから、考えることもない。
 ひょっとすると、当たり前だということを少しでも意識していれば、このような疑問が生まれるのは当然のことではないかと思えるのだった。
 本当に当たり前のことは、当たり前であるということすら意識しない。それを考えると、道端に落ちている石ころを感じさせる。
 石ころだって、
「そこにあって当たり前」
 というものであり、それすら感じることがない。
 目の前にあって意識することがないのを、
「路傍の石」
 という言葉で表すのだろうが、それも、あくまで意識してのことである、
 そんな不可思議な現象を、恐ろしいなどと思うこともなく、いや、感情のようなものすら希薄になるほど、彼女とのしたことのないデートに妄想を膨らませていた。
「これは妄想なんだ」
 と思うことで、怖い気持ちが消え去ったのかも知れないが、意識としてはまったくなかった。
 その分、時間的な感覚がない。気が付けば駅についていたというのだろうが、駅についたことも意識がない。
 もっと言えば、自動券売機で切符を買ったことも、自動改札を通り抜けたことも、ほとんど意識はなかった。
 私鉄ではだいぶ普及してきたが、まだ国鉄では実用化すら感じられない自動改札というものは、意識して通らないと指を挟んでしまいそうで、本当は危ない。しかし、それを簡単に通り抜けられるのは、すでに自動改札というものが自分の身体に意識以上の習慣を植え付けているということなのかも知れない。
 そういえば、一緒に来る時は友達と一緒に来たのだから、どうして一緒に帰らなかったのかというと、
「今日は俺、一人で帰るわ」
 と、普段だったら、相手に失礼になると思って絶対に言わなかった言葉なのに、思わず口にしてしまった。
 もう少し時代が進めば、ポータブルラジカセ(通称になっている言葉があるが、それはメーカーの登録商標なので)か何かで音楽でも聴きながらであれば、自分の中で妄想がさらに膨らむのだろうと後になって思ったのだが、まだ、その時代にはポータブルラジカセ自体が開発されておらず、商品化されていなかった。
 だが、この時の経験があるからか、ポータブルラジカセが発売されると、飛びつくようにして買って、大学までの通学の間、ずっと使っていたものだった。
 そんな道を歩く時の妄想を知ってしまった久則は、その時以降、自分の中で妄想することを悪いなどと思うことはなく、むしろ、
「妄想というのは、自分の中で生きていく糧になるものではないか」
 と思うようになっていたのだ。
 電車に乗って、車窓の光景を見ていると、妄想は少し薄れてきた。車窓の光景に目を奪われていたのだ。
「スピードに目を奪われていた」
 と言ってもいいかも知れない。
 スピードは、視界を広げるもので、そして、遠くに見せるものだった。
 きっと、スピードにおいつかない動体視力を少しでも、追いつかせようとすると、スローに見えるにはどうしたらいいかということを考えてしまうのであろう。
 その時に考えるのが、近くに見えているものを、どんどん遠くに見える、つまり小さく見せることが一番なのではないかと思うようになった。
 それが実際に証明されたと感じたのは、新幹線に乗った時だった。
 最初はその理由が分からなかったが、いつもなら近くに見えると思っているような光景なのだが、実は自分の中で小さくしているだけであった。新幹線が通る場所というのは、騒音の問題があることからか、ほとんどが田舎を通っている。その証拠に、その路線のほとんどがトンネルというところだってあるではないか。
 いずれ開発される(ということになっている)リニアモーターカーだって、すべてがトンネルの中だということだ。
 考えてみれば、新幹線が実用化される頃から、リニアモーターカーの開発は進められていたのに、新幹線が東京と新大阪間で開通してから、もう五十数年が経つのに、やっと構想が見えてきたという程度ではないか。ロボットやタイムマシンでもあるまいし、どうしても超えられない壁が物理的にあったようには思えないのに、ここまで開発が遅れているというのは、どうせ民衆の知らないところでの利権絡みなのだろうということは、公然の秘密になっているということであろうか。
 それはともかく、新幹線に乗った時に感じた、
「車窓の風景が小さく見える現象」
 これが、動体視力を少しでもカバーしようとしているものだとすれば、その時に乗った阪急電車の車窓も無意識ではありながら、きっと車窓を走り抜けていく光景に目を奪われていたことだろう。
 電車で十分ほど乗ると、自分の住んでいる駅に到着した。
 いつもの大学とは別の方向なので、何となく違和感はあったが、同じ違和感でもいつもとは違っていた。別に方向が違うからというわけではなく、十分という時間がなかったかのように感じられたからだった。
 今までに味わったことのない楽しい時間、それが感覚のないものであったり、路傍の石のように見えているのに、気付かないものであったりするということに驚きを覚えた。
 それが妄想だとしても、妄想を抱くことで幸せな気分になれるのであれば、それの何が悪いというのだ? それを考えると、何が正しいのか分からなくなってきた。
 あれは、大学三年生の頃だっただろうか。宗教団体ともすでに決別していた頃だったのだが、あれは、当時できた彼女との何回目かのデートの時だった。
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次