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昭和から未来へ向けて

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 本来であれば、裁判の上での材料であるはずの証拠が、
「自白させるための道具」
 として使われていた。
 それは、取り調べが刑事課の取調室で行われるという密室だったからだろう。
 今では取り調べの際の虐待などがないように、取調室の扉を開けているようだが、そもそも、犯人かどうか分からない人間を恫喝するというのは、人権侵害もいいところではないだろうか。時代が時代だったとはいえ、本当に暗黒の時代だったと言えるのではないだろうか。
 そんな時代の反省から、
「冤罪を起こしてはいけない」
 という発想が盛り上がってきたのは、その頃からである。
 警察組織には昔から、いろいろな問題があった。管轄による、まるでヤクザの、
「縄張り争い」
 のようなものであったり、
 前述の取り調べにおける憲兵隊さながらの、拷問であったり、さらには、学歴におけるキャリアの問題であったりと、もっともキャリアの問題は、警察組織に限らず、どこの会社にもあることなのかも知れないが、冤罪という問題がクローズアップされてきたことで、影で行われている犯罪捜査がうまく機能しなくなったという弊害も起こっていた。
 警察も、諸事情の個々の問題をいかに解決すべきかということで、多種多様化した犯罪に対して、いろいろな部署を設けることで対応している。
 マルボーであったり、詐欺専門の捜査であったり、麻薬専門から、今でいうネット犯罪に関してなど、それぞれのエキスパートが行うようになっている。これらの方が、相手が組織ぐるみであることが多いことから、一般の犯罪に対してより、捜査は難しいのかも知れない。だからこそ、継続的に長期的な目で見て行かなければならない、そんな部署なのであろう。
 今では、宗教団体専用の組織が実際に存在しているが、それは、宗教団体を隠れ蓑に、凶悪犯罪が横行してきた時期に、新設されたものであったが、実際には、影の組織として、警察内部に宗教団体専用部署というのがあった。
 それを大っぴらにしなかったのは、その部署の本来の目的が、「内偵」というものにあったので、表に出せなかったのだ。
 しかも、警察機構は、ある意味地方分権の形式を取っていて、それぞれの県警を中心に行われていて、警視庁も例外ではなかった。確かに東京は日本の首都として中心にあるのだが、だからと言って、県警と警視庁に上下の差があるわけではなかった。つまりは、警視庁が神奈川県警や埼玉県警に対して上から見ることはできないということである。
 つまりは、同じ警察機構に属していても、それぞれの県警で、ある部署とない部署があったり、それぞれ単独で存在する部署もあれば、部署によっては、二つ以上を一つの部署で見なければいけないところもあった。
 例えば、暴力団関係と宗教団体を管轄する部署が単独に存在する県警もあれば、一緒になっている県警もあるというわけである。
 それだけ、警察機構は中央集権ではないということだった。
 ただし、だからと言って、まったく協力しないわけではない。以前は、警察も警察庁を中心に中央集権であったが、あまりにも県警同士、あるいは、警視庁との軋轢があったために、せっかくの広域犯罪を解決できないということが続いた。
 警察としては、広域に捜査できる部署を設立したが、それだけでは足りなかった。広域捜査部を中心に、それぞれの中央集計になっている部分を取っ払って、あくまでも、警察庁は、広域捜査部の長として君臨はしているが、実際の権力は地方分権ということになった。
 まだなってから、そんなに時間が経っていないので、その実績が証明されるまでに少し時間が掛かるようだが、着実に実績を重ねているのは事実だった。
 ただ、警察組織を今のような形にするまでには、たくさんの事件があり、やはり、昭和の頃からの試行錯誤が、今の警察組織に繋がっていると言っても過言ではないだろう。
 暴力団関係の事件は昭和には多かったが、ニュースになるような凶悪犯罪には、どうしても宗教団体が多かった。
 久則も、子供の頃から、
「宗教団体というのは胡散臭い」
 ということは訊かされていたので、なるべく関わらないようにしようと思っていたが、友達から紹介されたその組織は、実に宗教団体というのとは違っているように思えた。
 それもそうだろう。最初から宗教団体ですと言わんばかりの胡散臭さを表に出していては、誰も見向きもしないだろう。
 ただ、話を訊くというだけのことが本当は胡散臭いということを、その時の久則には分かっていなかった。
 何と言っても、大学生の久則に対して、高校生の女の子を説得にぶつけてくるのは、ある意味反則ではないだろうか。
 思春期を彼女もいない青春時代を過ごし、大学に入ってから、友達としての女の子を意識することはあっても、彼女ができるわけではなかった。
「彼女がほしい」
 という意識はあったが、いつも別れだけが記憶に残ってしまうような、しかも、尾を引いた別れ方をすることに自分の中でどうにもならない葛藤を覚えていた。
 高校生の女の子を見ていると、久則を必死に説得しようというよりも、自分の考えをただ話しているという感じがあり、
――これって、本当の説得なのかな?
 と感じるほどであった。
 説得だとすると、もっと必死になるのではないか、彼女が必死になっているのは、自分の気持ちを言おうとしているだけで、相手が分かろうがどうしようが関係なくも思えた。
「どうせ、他人には分からない」
 という思いが見え隠れしているようで、ただ、そんな中、
――他人には分からないと思っているようなことを、よく彼女は淡々と話ができるものだ――
 と思ったことだった。
 そんな気分になれるような自分なりに納得できることが、この女の子にはあるのだ。それを思うと、彼女のような、他人から何と思われてもいいという確固とした自信が持てる気持ちを形成できる団体がこの団体だということであれば、ちょっとした興味が湧いてきても、無理もないことだった。

              集会への参加

 高校生の女の子が何をもって、自分の意見を人に話そうとするのか、それは布教活動というよりも、実際に入信している人のスキルアップのようなものではないかとも思えてきた。
 誰かを紹介されて、その人を引き入れるというよりも、その説得しようとしているように見えているが実は、団体として、その人への何かステップアップへのテストのようなものではないかとも思えるのだった。
 そう考えると、話の仕方も相手に向けたものではなく、自分に言い聞かせているところもあったりしたと思うと納得できるところもある、
「明らかに人を説得しているような感覚ではないな」
 と思ったのだが、考えてみれば、友達も最初から勧誘だとは言っていないではないか。
 もっとも、宗教団体の勧誘だとしても、それを正直に相手に話すわけはない。誰がどう考えたって、宗教団体の勧誘をまともに聞こうなどとは誰も思わないだろう。まずは、席についてもらうことが先決で、それがなければ、何も始まらないではないか。
 そう思うと、自分が最初に感じたことが、頭の中で揺らいでくるのを感じた。
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次