小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

昭和から未来へ向けて

INDEX|13ページ/26ページ|

次のページ前のページ
 

 というものがあることは忘れてはいけないことではないだろうか。
 また、実際に宗教団体という形を取っているが、実際にはただのテロリスト集団であったというものが、存在したということは、久則が大学生だった時代から十年後くらいに起こった事件によって明るみになった。それまでにも同じような事件があり、社会問題にもなったものがいくつもあったが、これほど全世界的にセンセーショナルな話題を振りまいたものもなかったでろう。
「彼らが目指したものが何だったのか?」
 宗教団体とは一体、どういうものなのであろうか?
 さすがに昔の帝国主義時代の宣教師たちのようなことは今の時代にはないだろう。昔の宣教師といえば、貿易という隠れ蓑に隠れて布教活動を行い、実際には国家が推奨する植民地計画の一端を担うかのように、布教活動の中で、相手国家にクーデターを起こさせようという含みを持った団体が存在していたようだ。
 占領するのに市場手っ取り早くて、さらに自分たちの行動を正当化して、まわりに怪しまれないような植民地化としては、内紛に乗じて、軍を送り込むということが結構横行していた。
 日本でもそのことが分かっていたからなのか、国内での布教活動、特にキリスト教の布教を弾圧したり、宣教師を処刑したりということがあった。
 やりすぎとも言える行為だが、植民地化された国のほとんどが、宣教師によって内紛を起こさせたという事実もある。それを思うと、今も昔も宗教団体に対して、怪しいという気持ちを一定数持っているのも、仕方のないことであろう。
 そのすべてを否定も肯定もできないが、気を付けるに越したことがないというのは、国民を守るという政府の立場からすれば、当然のことと言えるのではないだろうか。
 そんな中で、一時期話題になった宗教に、
「不貞を許さない」
 というのがモットーの宗教があった。
 基本的に宗教というと、不倫などは許されないことであるという気はしているが、不倫と同意語である不貞があった場合、処刑を受けるということが社会問題になったことがあった。
 当時の社会は、何が正義なのか分からない時代があった。ちょっとでも何か悪いと思われるようなことをすれば、社会的に抹殺されるようなピリピリとした時代で、たとえば、路上で咥えタバコをしていただけで、過激な連中に裏路地に連れていかれて、袋叩きにあったりという事件が頻繁に起こっていた。
 被害者の背中に、紙で、
「天誅」
 と書かれて、行動を起こした団体の名前が書かれていた。
「何とか愛国同盟」
 などというもっともらしい名前の団体だが、やっていることは、暴力でしかなかった。
 反社会的勢力といえばそれまでだが、過激すぎて、警察もなかなか取り締まりも難しかった。
 むしろ警察官の中には、
「なぜ彼らの行動が非難されなければいけないのか?」
 と言葉にはしないが思っているやつは多かっただろう。
 警察としても、手に終えなくて困っていた。本当であれば、自分たちも天誅を加えたいのだが、警察の権力ではそこまではできない。手をこまねいて見ていなければならないのは、ストレスのたまることだった。
 そんな自分たちにできないことを実現してくれる団体がいる。
 なるほどやっていることは過激だが、自分たちにできないことをやってくれて、大いに留飲を下げてくれるのだから、感謝こそすれ、取り締まるなどできればしたくないことだった。
 世の中には、国家権力と言っても警察には手を出せないのをいいことに、やりたい放題の連中がいる。そんな連中の方が、致し方なく事件を起こしてしまった人を検挙するよりも、よほど大切なことだと思っている警官も少なくはないと思う。そんな過激な連中と宗教団体の連中を一緒にするのは、一概にはできないかも知れないが、どこが違うのかを自分なりに警察官であれば、把握してないといけないことではないかと久則は思っていたのだった。
 そんな中で、
「不貞を許さない」
 という考え方には賛否両論あった。
 基本的に
「不貞は悪いことだ」
 という考えは、皆一致していた。
 しかし問題は、そこではなく、いわゆる、
「天誅」
 と呼ばれるものを、どこまでなら許せるかということが人によって違っているということであった。
 だから、彼らの行動に対して一定の考えがないことが、その行動を予知して、対応するということができないのではないか。それが実は彼らの第一段階の行動で、予行演習と言ってもよかった。それらを検証し、世間が自分たちにいかに対応できるかを最初の段階で、シュミレーションしていたというのが、正直なところなのだろう。
 だが、警察にも世間にも分からなかったが、そのことを口にしてはいけないことがあったのだ。当然マスコミもそのことを扱わない、新聞や雑誌にも載らないし、テレビでも話題にしない。
 ただ、毎日のように、不倫をした人がケガをさせられたり、中には殺されてしまった人もいる。さすがに殺人事件まで起こってしまっては、警察の威信にかけて、解決しなければならない。国会でも問題になったようだが、警察がこれら一連の犯行と、宗教団体を結び付けるような絶対的証拠を見つけることはできないので、手を出すことはできない。
 特にこれほど社会問題になってくると、それだけに証拠が確固たるものでなければ、簡単に捜査もできない。
 その頃に問題になっていたのが、かつての死刑囚に対しての冤罪も問題であった。
 警察も、特に検察としては、昔では十分な証拠能力があった犯人による自白を、決定的な証拠として取り上げてきて、それ以外の証拠に対しては中途半端にしか揃えていなかったのだ。
 それを弁護側が巧みについたが、当時の裁判ではなかなか弁護側が受け入れてもらえず、死刑が確定してしまっていた。
 だが、その後の法廷の慣習が変わってきたことで、自白というものが、
「警察側による強制」
 ということが問題となり、警察の捜査に対して、公開性が必要とされるようになる。
 今では考えられないような取り調べが行われていた時代だったのだろう。それは昭和四十年代に流行った刑事ドラマなどのDVDを見れば、どこまでひどいものだったのかということが分かるというものだ。
 刑事が、机の上に足を乗せて、委縮している容疑者を恫喝してみたり、ライトを目の前に押し付けて、
「吐け」
 とばかりの脅しをかける。
 気の弱い容疑者であれば、簡単に白状させられる。中には犯人でもないのに、白状させられ、それがそのまま裁判証拠となり、有罪が確定してしまうという、そんな時代であった。
 本当に冤罪が起こらないわけがないと思うほどの取り調べが本当に行われていた時代があったのだ。
 警察の取り調べの中では、
「これ以上粘ったって、お前にいいことなんか一つもないんだ。今ここで吐いてしまえば、裁判で少しでも罪が軽くなって、ひょっとすれば、執行猶予だってつくかも知れない」
 などと、自白の強要が、いかにも容疑者のためであるかのように話すのだ、
 だが、実際は警察とすれば、自白させて、起訴に持っていければ、そこで事件は解決ということになる。そのために、全力を尽くして、自白に追い込もうとする。
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次