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昭和から未来へ向けて

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 その日、友達が連れてきたのは、一人の女性だった。それも年上ならそれほどビックリはしなかっただろうが、何と彼が連れてきたのは、セーラー服を着た高校生の女の子だったのだ。
 話を訊きながら、最初は、
「年下の女の子が説教めいたことを言っても説得力があるのだろうか?」
 と感じたことだった。
 だが、彼女の話を訊いていると、彼女が年下だとは思えない。一生懸命に説得しようとする姿は、年下だという上から目線で見ていたことを失礼だと思わせるだけのものだったのだ。
 彼女の目はしっかりと久則を捉えていて、それでいて、急に視線を逸らしてくると、こちらがビックリして相手の視線を思わず目で追ってしまいそうになるくらいであった。
「坂田さmは、何か不安めいたことってありますか?」
 と聞いてきた。
「ええ、ありますよ。むしろ、不安めいたことばかりです」
 というと、
「そうなんですよ。不安に思うことって、本当はどうして不安に思うかもわかっている。でも実際に考えていくと、その不安が自分で納得のいくことであれば、解決の糸口はおのずと見えてくる。要するに納得できるかどうかということが、一番の問題ですからね。でも、不安めいたことというのは、不安なんだけど、何に対して不安なのか分からないので、考えれば考えるほど、不安が募ってくる。相乗効果の逆なんですよ。だけど、そのことだけは分かっている。だから、余計にそのことが分かっているということを自分で認めたくない。その思いがあることで、どうしていいのか分からなくなる。負のスパイラルというのはそういうことなのかも知れないですね」
 と、女子高生とは思えない口調で諭してきた。
 しかし、彼女の視線はあくまでも上から目線ではない。上から目線ではないのに、どこか相手を恫喝しているようにも感じる。それはきっと相手の納得を促そうとする説得を試みているからだろう。
 しかも、相手にこれが説得であると思わせると、相手は引きこもってしまって、心を開こうとしなくなる。それが分かっているから、言葉も選ぶし、恫喝しているように見せながらも、相手に考えさせようとする。
 相手を従わせようとする恫喝は、相手に考えさせないのが普通だ。相手が考えられるような余裕を与えてしまっては、恫喝の意味がないと思っているからだ。あくまでも先手必勝、恫喝を恫喝として強引に押し切ることが、相手を従わせる恫喝である。同じ恫喝でも種類があることをその時、初めて気づかされた気がした。
 中学生の頃までは、そんな恫喝しか感じたことはない。考える余裕がないだけに、相手が近づいてきただけで、思わず避けてしまうという条件反射をしていたようだ。潜在意識だけで行動する。そこには自分の意志にともなう意識はないと言ってもいいだろう。
 女子高生であっても、相手の余裕をそぐことのない恫喝を相手に浴びせるという高等技術ができるということに、ビックリさせられた。話の内容はともかく、その女の子の存在が久則の中で何かの心境の変化を生んだようだった。
 それが、まさか新興宗教団体だなんて思ってもみなかった。
 宗教団体が怖いという話はまわりの大人からそれまでにいろいろ聞かされてきたが、何しろ大きな事件を起こすわけでもなかったので。子供には分かりにくいものであった。
 といっても、それは子供が理解できないことであり、大人は事件の中に、新興宗教が関わっているものが、子供が感じているよりもたくさんあることが分かっていた。
「宗教団体なんて胡散臭いもの」
 という漠然とした言い方でしかできない大人も、その本質が分かっていないということであろう。
 言っていることに信憑性は感じなかった。何しろ何を言っているのか分からなかったからなのだが、話の内容を考えると、
「言葉の裏を読み取ることに対して、努力をするということが、理解に対しての抵抗ではないか」
 と思えるからだった。
 そんな、何を考えているか分からない自分への納得も、相手を理解しようとする中に含まれているのかも知れない。
 そういう意味では、宗教団体の何たるかというものが分かっていたのかも知れない。
 女子高生に諭されることを、心の中で屈辱と感じながら、何を言っているのかを理解しようとする自分の態度に健気さを感じていた。それをまさか宗教団体の方で先読みし、そんな健気さを逆手に取ることで、相手を洗脳しようとでも思っているのだとすれば、
「宗教団体、侮れぬ」
 と言ってもいいかも知れない。
 だが、これはあくまでも自分の勝手な発想であり、他の人皆、同じような健気さを感じるとは到底思えない。逆に他の人には違う思いを感じたとしても、今自分で感じたような宗教団体への奥深い考えを抱かせるのが目的だとすれば、そちらこそ、侮れないということになるのではないだろうか。
 もし、人心掌握術というものは、
「相手が何を考えていようとも、自分が考えていることをこちらの考えに誘導することができるのだとすれば、それこそ洗脳だと言えるのではないか」
 と感じる。
 それを人心掌握術として、一つの策略のように感じさせる学問が心理学であれば、相手を洗脳するためには、心理学をいかなる方向からも見抜くという方法が用いられたとしても不思議のないことだ。
 さすがに女子高生がそこまでできるというのは、少し考えにくい。となると、彼女も誰かの洗脳に掛かったことで、自分が洗脳されたことへの反動として、他人も巻き込むような意識になっているとすれば、他人を巻き込むことに、一切の罪悪感はないだろう。それどころか、自分がいいことをしているかのように思っているに違いない。
 それが新興宗教における、洗脳であるとすれば、何となくその力の源が分かってくる気がしてきた。
 自分が受けた洗脳を、他人にも伝達すること、つまり、布教活動というものは、古来からそのようにして受け継がれてきたものであろう。
 しかも、その洗脳というものは、素朴な宗教団体の儀式だとすれば、そこに悪意は存在しない。そこに悪意が含まれるのだとすれば、宗教団体以外の別組織の力が働いているのではないだろうか。
 そこに政治的な力が働いているとして、宗教団体の布教活動を自分たちの政治に利用しようとすることで、世論の力を味方につけるということもありえる。
 さらに、他国に対しては、宣教活動と一緒に、貿易と称して布教に参加し、実際にはその国に多大な影響を与えることで、自分たちの思惑通りの内紛やクーデターを引き起こさせ、その混乱に乗じて、相手国を占領しようという考えが生まれてくるのだ。
 それが、帝国主義時代のいわゆる、
「植民地時代」
 ということになるのではないだろうか。
 そうやって、清国や、東南アジア諸国が、欧米の列強国によって植民地化され、世界的な弱肉強食を形作っていったのだ。
 それをキチンと勉強していれば、宗教団体に洗脳されることはないのかも知れない。
 ただ、宗教のすべてを否定するわけではない。純粋に神様を信じる古来からの宗教には、
「宗教の宗教たるゆえん」
 があるのだろう。
 しかし、歴史の事実として、
「過去の戦争における原因となるものに、宗教的な思想が絡んでいるものが、ほとんどを占めている」
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次