小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

昭和から未来へ向けて

INDEX|11ページ/26ページ|

次のページ前のページ
 

 ほぼ来店時間に差はないが、一人で来てからコーヒーを飲みながら、店においてある新聞や雑誌を見る人か、文庫本を持参で本を読んでいる人が多い。中にはマスタと話をするのを目的に来る人もいるが、その人がいない時は、ほとんど店内は静かなものだった。
 久則がこの店に来るのは、やはりモーニング目的が多かったのだが、それ以外には昼前が多いだろうか? 本を読みたい時がほとんどなのだが、なぜクラシック喫茶に行かないかというと、理由は単純で、眠くなってしまうからだった。
 ただでさえ、ゆったりとしたソファーに、BGMがクラシック、暗い店内にスポットライトが当たっている席で、小さな文字の文庫本を読むのだから、睡魔が襲ってくるであろう条件をすべて揃えているのだ。
 その日の約束は、午前十一時だった。その日、朝から一時限目が語学の授業で、それから二時までは授業がなかったことから、ちょうどよかった。
 実はその日も朝から、その喫茶店でモーニングを食べていたので、
「本日二度目のご来店」
 ということになった。
 これも別に珍しいことではない。朝モーニングを食べて、本を読みに来るというのも、日常茶飯事と言ってもいい。ただこの日は二回目の来店の主旨が違っていただけだ。
 そもそもこの店は駅前という立地も影響してか、待ち合わせに使う人が結構いる。久則もそれまでに何度も待ち合わせでこの店を利用したが、自分からこの店を指定することは珍しかった。
 いつも相手に指定されるのだが、一番多かったのは、以前に付き合っていた女性だったのだ。
 ここの駅を利用する大学生は、久則の大学だけではなく、女子大が二つ、そのうちの一つは薬科大学だが、さらに、短大が一つあった。少々遠いが、商船大学の学生もこの駅を利用する人も若干いたりした。
 皆パッと見、どこの大学生か分からないが、女子大生に関しては、ファッションなどから、どこの女子大生なのか、ピンとくるという友達もいた。ちょっと気持ち悪い気もしたが、これも一種の能力のようなもので、それだけ他人への観察眼が鋭いということなのだろう。
「その能力を他のことに使えばいいのに」
 と苦笑してしまう久則だった。

              新興宗教団体

 その女の子とは、どれくらいの付き合いだったのか、正直、女の子と付き合ったという記憶で一番古いのが、その彼女との付き合いだった。大学に入学してすぐくらいの頃に、最初に付き合った女の子がいたのだが、付き合い始めも、別れた時も、自分の中で意識があったわけではないので、本当に付き合ったと言えるのかどうか、ハッキリとしなかった。
 きっと、付き合い始めも別れも自分からではなかったので、意識として残っていなかったのだろう。
 もっとも、今までの恋愛経験で、別れだけはハッキリしていた。自分からふったことは一度もなく、そのほとんどが、相手からの別れの宣言を一方的にされて、押し切られてしまうパターンだった。いつも、別れの理由も分からずに、結局、割り切るまでにいつも時間が掛かるという、時間の無駄遣いばかりをしている頃だったとも言えよう。
 しかし、その頃は、割り切るまでにかかった時間を、もったいないとか、時間の無駄遣いという感覚はなかった。
 どちらかというと、
「楽しかった頃の思い出に浸ってしまっていて、そこから逃れられない自分がいた」
 というイメージが強く、使ってしまった時間は、そこから立ち直るために必要な時間だったことを思うと、もったいないとは思うかも知れないが、無駄遣いだとは思えない、
 無駄遣いだと思ってしまうと、その時間自体を、
「割り切った時間」
 と思ってはいけないと考えてしまい、時間の感覚がマヒしてしまいかけている、大学生活を分からないものにしてしまいそうな気がしていた。
 よくその喫茶店で待ち合わせた女の子と別れた時も、いきなりだった。
 急に連絡が取れなくなって、遭いにいくと、いつもの笑顔は消えていた。明らかに、こちらを睨んでいる顔に見え、
「今まで一番自分を分かってくれていると思った人が、こんな顔をするなんて」
 という思いが強く、怖くて自分から何も言えなくなってしまった。
 その思いがあるから、自分も彼女に何も言えなくなってしまい、一緒にいて一番安心できるはずの相手が、その時から、一番そばにいてギクシャクする相手になってしまい、一緒にいることが怖くなったのだ。
 それだけではない。一緒にいない時に思い出すのが、楽しかった時のことばかりだったのだ。
 つまり、一緒にいるのが怖いくせに、一緒にいない時には楽しい思い出しか感じない。そう思うと、自分が何を望んでいるのか分からなくなってくるのだ。
 その感覚があるから、割り切ることができないのだ。自分の中で矛盾したことを頭の中に描いているのが分かっている。だからこそ、割り切れない。
 昔の歌に、
「三歩進んで二歩下がる」
 というのがあったが、まさにその通りである。
 頭の中に相いれない矛盾した発想があるのだから、それぞれに違う方向を見ているのであれば、当然進んだつもりで、戻っていたりもする。それが、割り切りを決定的に遅くしてしまった理由だろう。
 しかも、楽しい思い出というのは、その時々に存在している。一つや二つなどということはないのだ。それに、時間が経ってくれば、記憶があいまいになり、一つの想い出がいくつもの想い出のように感じられるようになり、どんどん膨れ上がっていく。
 その感覚が矛盾をさらに複雑にしてしまい、余計に割り切れなくなってしまうのだろう。この感覚は時間や数に関係のあることではなく、割り切ることができずに、ここまで行ってしまうと、
「本当に割り切ることなんか、できるんだろうか?」
 と考えてしまうであろう。
 久則が彼女ができてから、いつもいきなり別れが訪れて、それを割り切ることができずに、悶々としてしまうのも、一種の恒例となっているようで、久則のことをよく知っている友達は、
「またか」
 と思っていることだろう。
 彼らに久則が、その時代を過ぎ去ってかなりしてから、理解できるようになったこの発想は、その当時の友達の中には分かっていた人もいるのではないかと感じている。
 それから数人の女の子と付き合ったが、結局よく分からなかった。自分が人を好きになるということの本質がどこにあるのか、それが分からないことには、女性と付き合っているということと、恋愛感覚が同じだとは言えない気がしていたのだった。
 実際に恋愛に迷っている時期ではあったが、今から考えて楽しい時期でもあった。割り切れない時は、人生を勿体ないと思う余裕もなかったが、後から思うと楽しいと思えるのは、もったいないわけではなかったと思うからだろう。
 喫茶店で待ち合わせをした時も、
「何か新しい発見ができるかも知れない」
 と思ったことで、ワクワクしていたような気がする。
 大学生の頃と大学を卒業してからの違いで一番大きかった感覚は。この新しい発見をできるかどうかではなく、できるかどうかを考えられるかどうかということに掛かっていたような気がするのだ。
作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次