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正悪の生殺与奪

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 まるで薬物乗用車ではないかと思えるほど、最初は目線が明後日の方向を向いていたが、次第に落ち着いてきたのか、門倉を凝視するようになった。それはまだマシな方で、このまま目線を合わせることがなければ、どうすることもできない時間が無駄に流れるだけだった。
 かといって、むやみに声を掛けるわけにはいかない。だが、時間が掛かりすぎると、人質になっている女の子の精神状態がいつまでもつかが問題だ。
 彼女に下手に負担をかけると、もしここで解放されてもトラウマとして精神的な疾患が残らないとも限らない。門倉刑事はそこまで考えていた。
 刑事課の門倉刑事には、凶悪事件を扱ってくることで、あらゆる立場から現状を見るという視野が確立していた。そのことで、刑事としての経験値も上がってきて、次第に、
「老練な刑事」
 という称号を貰えるようになってきた。
 それを嬉しいととるかは本人次第だが、別によくも悪くもあまり気にしていないようだった。
 犯人との睨み合いがどれほど続いたのか、相手が次第に疲れてきたようだ。
 何しろ相手はまだ中学生くらいの男の子、顔にはニキビが浮かんでいて、世間を知らないというイメージが表情から溢れている。
――我慢比べなら、こんなガキに負けるわけはない――
 と思っている門倉であったが、それだけにこの緊張した時間に相手がどこまで耐えられるか、それを心配する時間帯に入ってきたことを意識していた。
 もう少しすれば、こちらから責められる時間になってくるのだが、問題は彼女の方だった。
 さっきまでの青ざめた顔も落ち着いてきたようだが、その精神状態は、
――きっと、キレる寸前のところで足踏みをしているのかも知れない――
 と感じていた。
 足が震えているようで、ひょっとすると、このまま失禁でもするかも知れない。それだけはさせてはいけないと門倉は思った。
 こんな極限であれば、失禁は仕方がないが。それはまわりから見た場合の発想であって、本人からすれば、これほど恥ずかしいことはない。自分が蹂躙されて、それをどうすることもできず、苛立っている状態、そんな状態での失禁をまわりに見られるということは、どんな状況において失禁を見られることよりも、一番恥ずかしいことだと自分で思い込んでしまうのではないかと思ったからだ。
――時間との闘いだ――
 次第に焦ってくる自分の気持ちを何とか抑えながら、
「お前は刑事ではないか」
 と何とか言い聞かせ、いずれ訪れるであろう、相手の隙をつくというチャンスを逃さないように、それだけを考えていた。
「好機来たれり」
 と感じたその瞬間があった。
 相手は一瞬、その注意を他に向けた。何に気を取られたのか分からなかったが、そんなことを考えている余裕はない。
 急いで飛びつくと、相手は逃げようとした。本来なら絶対に離してはいけない人質に対して力が緩んだのだ。
――しめた――
 と思ってからは、電光石火の早業だった。
 それまでに培っていた刑事としての犯人との格闘あモノを言ったわけだが、相手が中学生ともなれば、実に脆いものだった。相手をひれ伏させるまでに、どれだけの時間が掛かったのか、あっという間に相手は自分に首根っこを確保されていた。
「大丈夫かい?」
 と声を掛けたが、女の子はへたりと座りこんでしまって立ち上がることができない。
 警察にはすでに通報されていたようで、すぐにパトカーがやってきた。
 パトカーから出てきた警官は、その状況を見て、すでに事態が収拾していることに安堵しただったが、そこでひれ伏している少年と、抑え込んでいる門倉刑事を見て、
「門倉さんじゃないですか?」
 馴染みの警官が声を掛けてきた。
「やあ、ちょうど通りかかってね」
 と、警官にそういうと、捕まった犯人は、門倉が警察関係の人間であるということに、初めて気づいたようだった。
 よろめいた女の子の同じように知らなかったのだろうが、すでに意気消沈していて、自分から動くこともできず、うな垂れた状態だった。
 さっそく犯人は警官が拘束し、そのまま交番までとりあえず連れていかれたようだが、門倉もその女の子も、そしてレジのバイトの子も、事情聴取を受けることになった。
 バイトの子は、その場から離れることができないということで、コンビニのバックヤードでの聴取になったが、門倉と女の子はそのまま交番まで赴くことになった。
 その子は、すぐには喋れるわけではなかったので、一部始終を見ていた門倉が事情聴取に応じた。
「なるほど、それは門倉さんも君も災難だったね」
 とねぎらいの言葉を警官が掛けたが、その頃には彼女の方も幾分か落ち着いてきているようで、
「はい、ありがとうございます」
 と返事ができるようになっていた。
 しかし、まだ指先の震えは止まっていないようで、その時の恐怖がよみがえってくるのか、たまに、自分の指先を見つめているようだった。
「それにしても、万引きくらいであんな行動に出るなんて、どうしてだったんだろう?」
 と門倉がいうと、
「あの少年、学校で結構いじめられっ子だったようで、あの万引きはそのストレスから、実は無意識だったようで、盗んだことを指摘されて初めて気づいたと言っているようですからね」
 と警官がいうと、
「なるほどね。あの時のアルバイト店員の態度が結構上から目線で、しかもどや顔をしていたようだったので、ちょっと怖いと思ったんだけど、僕が飛び出すのがちょっと遅かったようだね。まさか、近くを歩いていた女の子にとびかかるなんて、思ってもみなかったよ」
 と言って、門倉刑事は溜息をついた。
「それにしても、彼には彼なりの理由があるのかも知れないけど、まったく関係のない人に襲い掛かったということで言えば、まったく同情の余地はないですよ」
 と警官にいわれて、
「まったくその通りだ。だけど、彼も相当追い詰められた気持ちになっていたんだろうね。中学生くらいだったら、しょうがないのかも知れないけど、どうしてあんな風になってしまうのか、溜息しか出ないよな」
 と、本当に溜息しか出ない門倉刑事だった。

                   小説談義

 少年は連行され、その後、警察署での取り調べが行われたが、ここにはそれを詳細に列記する必要は、この物語の性質上、なくてもいいと思っている。ただ、少年が初版ということもあり、保護観察となることは間違いないという見解だった。
 門倉は彼女のことが気になってしまった。その時、人質になったことで、念のためにということで医師の診察を受けたが、医師の話として、
「高校生という多感な時期に、こういう経験をすると、その意識が強烈に残ってしまい、その場から逃げられなかったという意識が、彼女を自ら束縛するような精神状態に陥らせることがあります。被害妄想になったり、今まで感じなかったものに対して恐怖を感じるようになったりですね。それがどれほどまでに強い影響を与えているのかというのは、今の段階では分かりません。したがって、これからも定期的に彼女には診断が必要になるのではないかと思っています」
 ということだった。
作品名:正悪の生殺与奪 作家名:森本晃次