正悪の生殺与奪
犯人がいよいよ追い詰められて、
「もうダメだ」
と思った時に、自殺を試みるというのは、探偵小説などではよくあることだが、たいていの場合は、探偵や警部がすぐに気付いて、相手の手から毒薬やナイフなどを叩き落とすというシーンを、ドラマなどで何度となく見たことだろう。
しかし、ヒューマニズムの塊りのような門倉探偵には、相手に対しての同情心から、本来は分かっていることなので、普通に行動すれば自殺を止めることができるはずなのに、どうしても身体が動かない。犯人に自殺をされてしまうということが多かったりするのが門倉探偵なのだ。
彼の気持ちを分かっている警察関係の捜査員たちも、さすがにまさか門倉探偵が身体が動かないから止めることができなかったとは考えていない。
「あの人は、すぐに相手に同情するところがあるので、自殺をわざと見逃してしまうというところがある」
と思われている。
その感情が、彼を鬱状態に叩き落し、人と会うのを極端に嫌うような状態にしてしまい、最後には旅に出るという、少しベタな演出になってしまうのだ。
留美子も小説の内容やトリック、謎解き部分などはまだこれからではああったが、門倉探偵を中心にした登場人物のそれぞれの人物像は、完全に固まっていたのだ。
小説の内容は、それぞれの登場人物を想像しているとおのずから出来上がってくるような気がする。探偵小説も結構読み込んできているので、トリックをある程度思いつけば、そこから先はスムーズに書けるだろうと思っていた。
プロットもさほど時間を掛けずにできあがり、いよいよ門倉探偵を中心とした物語を考えようと思っていた矢先、頭に浮かんでくるのが、犯人像だった。
久保先生を犯人役に据えようと思った時、久保先生という人間の存在を、誰が生かすことができるかと考えた時、三角を登場させることを思いついた。しかも、三角の立ち位置や性格は、今の彼をそのまま踏襲しようと思っていた。
それは、三角という人間に他の性格が思いつかなったという発想と、カウンセラーという登場人物を想像したこと、そして、久保先生との関係を描くには、今のままの三角の登場がしっくりくると考えたからだった。
三角とは最近一番よく話をしている。
門倉刑事も鎌倉探偵も最近は忙しいようで、なかなか会うこともなくなってしまった。ただ二人ともインパクトは強烈なので、小説の中の登場人物としての外見的な意識には、寸分の狂いはないはずだった。
――門倉刑事を探偵として、いかに描くかは、鎌倉さんを警部にして、冷静沈着でさらに統率力のある捜査責任者として描くことが大切なのかも知れない――
と、留美子は考えていた。
久保先生の立ち位置が一番決まらなかった。性格はハッキリしているはずなのに、いざ犯人として描こうとすると、そこに何か矛盾が含まれる。
――この矛盾を猟奇殺人として描くことができないかしら?
と考えたが、やはり猟奇殺人のイメージは久保先生からは浮かんでこない。
久保先生という人は、どこか幻想的なイメージがあった。どこにいても目立つ存在ではない。それなのに、皆の心には最後に残っているというタイプの人である。それなのに、留美子はあまり印象にない。
――まるで日食のような感じかしら?
と感じたが、何かが違っているような気がした。
先生の雰囲気から考えると、月蝕ではないだろうか。先生は自らが光を発してまわりを照らすというイメージではなく、まわりの光を浴びて、そこで光るというイメージだ。つまり、悩みを持った人が光を発しようとしても、まわりの人に吸収されてしまうことで、その人の回復には至らないが、先生に対して浴びせられた光は、綺麗に反射し、光を放つことで、他の人にもその人の存在を認識させることができる。自ら光を発することなく、他人の存在を他の人に意識させるという力を持っている「月」のような存在ではないだろうか。
ただ、その人がどのような光り方をしているのかは、誰に分かるというわけではない。それだけに反射するにも光が中途半端だ。しかし、その分、幻想的な光を放っていて、その幻影に欲する光が、まさに「月光」というものなのだろう。
月光は限りなく白に近いものである。それを証明しているのが久保先生が放つ光であった。
光というものが、あるのとないのとでは世界がまったく違って見える。そして、光があるところには必ず影というものも存在する。久保先生の場合、影も光の一種に思えてくるから不思議だった。
これは小説を書いている時に久保先生に感じるイメージであった。月をイメージしていると、白色蛍光なので、本来浮かんでいるはずの影がまったく見えてこない。
「ウサギが餅をついているような」
そんな姿は皆無であった。
そんな先生が突然見えなくなる。地球によって太陽が完全に隠された状態の皆既月食を想像するのだが、その時、留美子は久保先生のつもりになって、月の側から地球を見ていた。
この場合は地球における日食と同じ感覚だ。地球の影に太陽が入ってしまい、太陽がすっぽりと隠れている。見えるはずの明かりが見えないと思っているのは先生一人、先生だけが日食だと思っているが、地球上にいる他の人には月蝕としてしか見えない。先生が見た日食は、まわりをダイアモンドリングが包んでいるという金環日食に見えているに違いない。
先生以外には皆既月食が見えていて、先生には金環日食が見える。先生はこんな思いを果てしなくしているのではないだろうか。他の人には見えるものが見えなくて、自分にしか見えないものが見えている。どちらが多いのかというと、きっと先生が見えている方が果てしなく多いように思われる。
先生がイメージしている月は、浴びた光によって輝きを増す。その光の元は、地球にいる人間は直接太陽から受けるものであるにも関わらず、先生の場合は自分と太陽の間に、地球という存在が介在している。先生の姿が見えない時は、ある意味平和なのかも知れない。先生が光り輝いてくると、そこかで何か悪いことが起こってしまうのではないかと、そんな発想が、先生を小説の中での犯人として配役させたのではないだろうか。
決して先生のことを悪い人だと思っているわけではない。探偵小説における犯人というものが、必ずしも悪い人間ばかりではなく、むしろまわりによって追い詰められた人間が、復讐や狂気によって、犯罪を犯してしまう。それこそがある意味、犯罪心理の真骨頂と言えるのではないだろうか。
月というものの存在をいかにイメージするかが、これから書こうとする小説のキーポイントになりそうな気がするのだった。
クラシックの答え
月というものは、古来からいろいろな謂れがあるものだ。中傷的に見る見方もあれば、月をテーマにしたいろいろな芸術作品もある。太陽のように灼熱に覆われているため、近づきにくいものではなく、
「冷たく光る」
というイメージもあり、人にとっては馴染みやすい存在なのかも知れない。
月という表現は、同意語として、
「衛星」
を示す場合がある。
つまり、惑星のまわりをまわるものを象徴して、「月」と表現するのだ。