詐称の結末
しかし、次作までにはさほど時間を置くわけにはいかない。なぜなら作者はもう死んでいるのだ。作者未発表のものを、後から遺族が発行しているのだということは読者にも分かっている。それだけにあまり引っ張ると、世間では遺族、あるいは死んでしまった先生の名誉を傷つけることになる。それだけはできなかった。
そのことは出版社も分かっていて、
「前後編作品でなければ、ここまで焦ることはないんでしょうが、思った以上に反響があったので、後編はあまり間を置かずに発想する方がいいと思います。三か月後でいかがでしょう?」
という話になり、
「それでいいと思います。皆さんの方が出版に関しては専門家でいらっしゃいますからね」
と答えた。
三か月後に発表した後編もさすがに反響を呼び、
「予言小説の後編」
と銘打って、発行した。
もう皆もこれが予言小説のようなものであるということは分かっている。となると逆手を取って、小説にあまり興味のない人たちにも売り込もうということで、少し過剰な宣伝にした。これは出版社の人からの提案で、さすがの俊六も、
「なるほど」
と考えた方だった。
だが、俊六の考えは別にあり、ここで、この前後編のある大作を発表したのは、この作品が一番「予言作品」として体裁をなしていたからだった。
他の作品は、確かに「予言」に絡む部分はあるが、それ以上にストーリー性を豊かにした作品で、作品としての完成度はまだ未発表の作品の方がよかった。
すでに、
「予言作家」
としての地位を確固たるものにした佐久間先生の立場からは、今後作品をどのように発表したとしても、それなりに売れるということは約束されたような気がしていた。
第一作から二作目までは一年、そして次の後編までは三か月、そしてここからは、半年に一度というコンスタントな発表の仕方でいいだろうというのは、出版社と俊六の間の一致した意見であった。
すでにここまで来ると、発表する作品の順番はある程度、佐久間の頭の中にあった。もっとも、もうこの後はどれから発表してもいいのだろうが、せっかくだから、佐久間先生が書かれた時系列に沿って発表するのが正解であると思われた。
実際に発表する作品を何度か読み返してみたりしたが、読んでいるうちにどこか懐かしさがあり、さらに、読み進めば、
「自分であっても、同じような発想をするんだろうな」
と考えたのだった。
そんな佐久間先生の未発表作品を読んでいるうちに、
「俺も、もう一度作品を書いてみようかな?」
という創作意欲に燃えてきた気がした。
それまでは、執筆に関してあまり真剣には考えていなかった。でも、佐久間先生のところに弟子入りしたのは、ずっと佐久間先生の雑用をするためでも何でもなかったはずだ。小説家になることを目指して入ってきたはずで、致命的な記憶力の欠如というハッキリとしたショックを受けたことがトラウマになって小説を書けなくなってしまった、しかし、プロットまでは完成させることができるのだ。せっかくそこまでできるのだから、挑戦してみてもバチは当たらないだろう。いや、むしろ挑戦しないというのは、プロットが書けるだけに、悪いことではないかとも思えてきた。
先生の作品の編集を手伝いながら、自分は個人的にプロットを考え、少しずつ書いてみていた。
一応、自分が書いていることはまだ誰にも話していなかった。
自分の中にトラウマがあることで、なかなか執筆活動はうまくいかない。一気に数枚書くことができたと思うと、数日間で二、三枚しか進まないなどという時期もあり、結局百五十枚くらいの作品を書くのに、半年もかかってしまったのだ。
推敲は一度だけは行い、誤字脱字を直すくらいにしていた。俊六は記憶力云々は別にして、推敲は以前から苦手で、執筆活動の中で一番億劫な作業だった。
そのうちに次作のプロットが出来上がり、さらに次の作品に取り掛かった。今度の作品は、もう少し長い設定にしていたので、合計で二百五十枚くらいの中編でも長い作品となった。これも半年近く掛けて書き上げたのだった。
ここまでくると、だいぶ作品を書くことへのトラウマはなくなってきた。書いたことは別のデータとして、箇条書きにしていたので、それを見れば、前に書いたことも思い出せる。さらにスピードを上げたことで、忘れる前に新たに書き加えられるので、時系列的に書きさえすれば、あまりトラウマを気にすることなどないことは分かってきた。
だが、こうなると自分の作風が時系列に沿っているものでなければいけないという制約がついてしまった。
それでもいいとは思っているが、そのうちにそれで満足できるかどうか気になっているのも事実だった。元々書けなかったことを思えば、ここまで書けるようになっただけでも素晴らしいことなのに、それ以上を望むのはバチが当たるというものだ。
だが、人間というのは、傲慢なものであって、できるようになればさらに高みを目指すものである。傲慢という言葉を決して悪いこととして考えてはいけない。あくまでも向上心を高めるものであるといういい意味で捉えるべきである、そう思うと、俊六は今向上心の真っ只中にいるということなのだろう。
佐久間先生が死んでから、そろそろ一年半が経とうとしていた。
「もう一年半も経つんですね」
と編集者の人はいったが、まさにその通り、今にでも先生が、
「坂上君」
と言って話しかけてきそうで、先生が死んだということ自体を自分が本当に受け入れているのだろうかと思う俊六だった。
先生の作品と、自分の作品を交互に発表しながら、自分も創作活動に勤しんでいる。こんな毎日を先生が存命の頃から想像ができたであろうか。
「いずれは僕も」
とは思っていたが、なかなか先生の背中ばかりを見て、誰かが背中を押してくれないとできなかったことが多かったに違いない。
そんな毎日を今は十分に満喫し、自分の作品に磨きをかけることを一番に考えながら、今日も執筆に勤しむ。それが自分の小説家としての毎日であり、そして醍醐味でもあったのだ。
佐久間先生の遺作が世に出回ってくるようになると、いろいろな批評家が、先生の作品について雑誌などに批評を載せている。そのほとんどは高評価なものが多かったが、一人の批評家で、先生の作品を酷評する批評があった。
それはあまりにもひどいもので、先生が生きていれば、一言抗議を入れてもいいレベルであった。
さすがに先生は存命ではないだけに、それを知っての酷評ではないかと思うと、さすがの俊六も腹が立ってきた。
自分は遺作に関しての出版を一任されているので、さすがにその批評家に対して抗議を申し入れた。もちろん、出版社を通しての正規な抗議であったが、相手の批評家も黙っていない。