詐称の結末
夢というのは、なぜか目が覚めてくるにしたがって忘れてしまうのだが、それは夢の世界が現実世界とはまったく別の世界であり、その間には確固たる結界のようなものが存在しているからではないかと思うのだ。
だが、最近亡くなった佐久間先生は、そんな予見的な小説を書くことで有名であった。
いや、有名であったというよりも、死んでから有名になったと言った方がいいだろう。
先生の死後、弟子である坂上俊六に先生から遺言があったのは前述の通りであるが、遺作というか、未発表の作品がかなり残っていて、その作品を公表するかどうかは俊六に任されていた。
もちろん、著作名は佐久間先生の名前である。ただ、その時に入ってくる印税は俊六のものになるという、普通に考えれば、
「おいしい話」
だった。
だが、俊六は迷っていた。
「作品を公表するのはいいとして、自分がその印税というおこぼれに預かっていいものかどうか」
という考えであった。
しかし、これはあくまでも建前であり、本音は違った。
本音には二つあり、一つは、
「自分の作品でもないものを自分の意見で発表するということは、作家のタマゴとはいえ、端くれの一人として、恥ずかしいものではないか」
というものであった。
この考え方は、結構信憑性がある。これはきっと彼以外の他の作家についている弟子やアシスタントの人間からすれば、同じ悩みを抱くに違いない。
作家としてのプライドを抱いたまま意思を貫くか、それとも目先の金銭に委ねるかのどちらかであった。
またもう一つは、この作品群の中には、予知的な内容のことが結構含まれていたからである。
伝染病の流行であったり、災害の予見。さらには、経済の動向など、結構詳しく書かれていた。
これをそのまま発表すると結構センセーショナルが巻き起こり、外れれば、死んだ人の作品ということで、そこまでひどくはないだろうが、誹謗中傷は免れないだろう。
しかし、当たってしまえば、問題はそんなことでは済まなくなる。しかも本人は死んでいるのだから、証明のしようもなければ、釈明を聞くこともできない。誹謗中傷がデマとなって、パニックを起こすかも知れない。それほど未来に対してシビアに書かれているものが多かった。
しかも、先生が今まで発表し公開してきた作品の中に、未来を書いた小説はなかった。ほとんど現代や過去のことで、予見などという言葉とは無縁の作風だったのだ。
だからこそ、今まで発表せずに自分の中に抱えていたのかも知れない。それなのに、なぜそれを弟子の俊六に委ねようというのであろうか。あまりにも荷が重すぎて、どうしていいか迷うことでしかなかった。
「どうして先生はこの俺にこんな厄介なものを残したんだ」
と先生を恨みたいくらいだったが、考えてみれば、
「先生は自分の死も予見していたということか」
こんな遺言まで書いているのだから、予見していたと見るのが正解であろう。
やはり最初は、
「遺作を公表することはいけないことだ」
と思い、公表を思いとどまるつもりでいた。
しかし、編集者の人の意見や、先生の遺志を考えると、ここは発表するのが筋だと思い返した。
――どうせ、俺には発表できるような話はないんだし――
と感じていた。
俊六がなかなかデビューできないのには、枯れには小説家としての才能とでもいうべきか、備わっていなければいけないある部分が欠如していた。これは致命的ともいえる部分で、いわゆる、
「モノを覚えられない」
というところにあった。
ストーリーをあらかた思いついて、プロットまで出来上がったとしても、それを作品として起こすだけの記憶力が欠如していた。せっかくいいストーリーは思いつくと思っているのに、もったいない話だと思う。先生からも、
「君にはせっかく、プロットを思いつくまでの才能があるのに、いざ執筆となると難しいのはもったいない話だ。プロットを思いつくまでの発想は俺にもないくらいのものなのにな」
と言ってくれていたくらいだった。
モノを覚えることができなくなったのは、先生の弟子になってからのことだった。それまではそんなに記憶力について優れているとは思わなかったが、劣っているなど想像もしていない。しかも致命的なほどだということにはビックリしている。
その分、プロットまでは完璧であった。記憶力の分がプロット作成の方に移行したのではないかと思うほどである。
そんな俊六は自分に備わっていない記憶力を何とかしようという意思もあった。まだまだ若いのに、こんなことでは、もし小説家の弟子でいられなくなったとしても、他の仕事につけるわけもない。そういう意味で、先生に死なれた時、一瞬目の前が真っ暗になったのも事実だった。
そんな思いもあって、先生の印税が入ってくるというのは、自分がこれからどうやって生活をしていけばいいのかということに関わってくる問題としては、ありがたいことだった。
だから、先生の作品を公開するということへの決断の一つには、自分のことも入っているのだった。
「本当に先生という人は素晴らしい人だ。なかなかこんなことはできないよ」
と言っていたが、まさしくその通りだと思った。
俊六は先生の本の中から厳選してどれから発表するかを練っていた。
一気に数冊を発表するようなことはしないと思っていた。それは、
「予言小説」
という意味合いもあってのことである。
いきなり何作品も公表してしまって、世間で佐久間先生の作品に違和感を持たれるのを最小限にしたいとも思っていた。
本当は本が売れるようにするには、センセーショナルな話題は必要なのだが、一気に発表すると、逆効果になるだろう。
ゆっくり一つずつ発表していく方が、ジワジワと広がっていき、本の売れ行きもいいのではないかと思うようになっていた。
まずは、最初の方での発表作品は、内輪などの狭い範囲での予言をした作品を中心に考えていた。
「これであれば、世間で予言小説だというウワサが立つことはないだろう。一部の小説家などが少し分かるかも知れないが、それも後からの発表なので、予言とは思わないかも知れない」
と、俊六はそう思ったのだ。
それでも評論家の中には気づいた人もいて、これを、
「予言小説ではないか」
と言ってはいたが、一人だけの意見では、誰が信用するというのだろうか。
この作品は、普通に発表され、そこそこは売れた。まだ佐久間先生が亡くなってからの印象が世間に残っていたからではないかと思い、想像していたよりも売れたことは、俊六を安心させた。
嬉しいとまでは思わなかったが、安心した、あるいはホッとしたというのが正直な気持ちだった。
「また少しして次作を考えよう」
と思うようになり、この頃には最初の戸惑いはなくなっているのだった。
一年経ってから次作を発表することになったが、今度の作品はある程度の予兆が書かれたものであり、前後編の前編に当たる作品だった。
この作品は想像通りの反響を呼び、次作が待たれることとなった。