小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

詐称の結末

INDEX|7ページ/29ページ|

次のページ前のページ
 

 民主主義には限界がある。そのために共産主義が台頭してきたのだろうが、共産主義でも理想は素晴らしいが、しょせんは大勢で一つの強力なものを作るという発想は多数決と何ら変わりはないようにしか思えなかった。多数決には自由があるというが、自由を逆手にとって、一部の特権階級が暴利をむさぼる今の世の中というのは、まさに本末転倒な世の中だと言ってもいいのではないだろうか。
 俊六は別に宗教家でもなければ、政治運動に加担しているわけでもないので、これ以上語ると、何か問題になるかも知れないので、このあたりでよすことにしよう。
 躁鬱症がなくなると、普段から結構饒舌であったことに気付いた。饒舌というのは、自分の言葉に自信がなければなかなか言葉には出せないものだ。
 人によっては、言っていることが支離滅裂な人もいるが、そんな人であっても、頭の中では何らかの結論に基づいて喋っているのかも知れない。ただ、言葉を整理しきれないだけではないだろうか。
 俊六が佐久間先生と出会ったのは、大学を卒業して地元の企業に就職したが、大学の頃から文芸サークルに入り、小説を書くことの楽しさを覚え、
「いずれは本を一冊でいいから出してみたい」
 という野望ともいえる思いを感じたからだった。
 そんな時、佐久間先生の作品に出会い、ちょうどその頃、仕事で行き詰まりを感じ始めていたこともあり、思い切って退職、そして弟子入りという電光石火にも似た勢いで、佐久間先生の弟子になったのだ。
 佐久間先生の方でも、アシスタントを探さなければと思っていたところだったので、佐久間先生からすれば、
「飛んで火に入る夏の虫」
 だったのだろう。
 需要と供給がうまくマッチした瞬間だった。

                  予言作品

 世の中に、
「予言小説」
 なる言葉があるかどうかは分からないが、結果として未来を予見した作品というのは実際にあるものだという。
「預言の書」
 と呼ばれるもので、いわゆる
「ノストラダムスの大予言」
 と一般的には伝わっている。
 しかし実際にはこの本はノストラダムスが予言したことについて解説しているというよりも、今までの彼の予言の正当性を証明し、今後起こるであろう未曽有の大災害というものがどういうものであるかを推理するものであった。彼の著わしたものは詩集であり、そこに予言めいた内容の話が書かれていて、それがことごとく当たっているという話なのだ。もちろんその中には明らかなこじつけと言われるようなものもあるが、信憑性はその歩を閲覧し、歴史がそれを裏付ける事実を残しているかが問題で、ただ、大予言なる本がベストセラーとして長年売られていたことを思えば、信憑性に関してはかなりのものだったに違いない。
 ただ、言われている
「恐怖の大王が、一九九九年の七月に振ってくる」
 というのが当たらなかったことは周知のとおりであった。
 このノストラダムスの話というのは、あまりにも大げさなものであったが、未来を預言、あるいは予見するというのは、そんなに簡単なことではないだろうが、その未来もどれほどの未来を予見するかによって、預言と言われるかどうかの分かれ目でもあろう。
 例えば百年後の未来を予知するのはかなり難しいだろう。完全に創造によるものか、それこそタイムマシンや未来を見ることのできる
「何とかビジョン」
 なるものでも開発しなければ難しいに違いない。
 しかし、これが一年後となるとどうだろう? 今度はその範囲が問題になってくる。
 自分や、その周辺だけの未来を予見するのと、世界的な何かを予見するのではだいぶ違いがあるだろう。ただ、それも勉強しているかしていないかで違うものであり、勉強していれば分かるものもあるというものだ。
 例えば経済数位なども経済学者くらいの知識があり、情報が備わっていれば、経済学を勉強している人であれば、専門家が舌を巻くほどの推理もできるかも知れない。
 ただ、それが自分の未来となると、却って分かりにくいものではないだろうか。自分の姿は鏡のような媒体を介さなければ自分では見ることができないように、ある程度までは想像できても、それ以上は無理だという結界のようなものが存在するのかも知れない。
 そう思うと、預言や予見というものは、簡単に思えることほど難しく、難しいと思うことほど理屈で考えさえすれば、それほど難しいものではないのではないだろうか。
 または、霊能力のような不思議な力を持っていて、預言に精通している人がいるとする。その人が未来を見てきたことのように書いて、それが本当のことであると立証されるとどうなるであろう。
 ノストラダムスがそうであったように、まるで妖怪や魔女の化身ではないかというような偏見の目で見られるに違いない。
 本人が世の中んためと思っているのかどうかは分からないが、ノストラダムスのように謎めいた言葉を連ねた詩集にその預言を書かなければいけない羽目になってしまう。
 デマや中傷が蔓延る時代だけではない。世の中には有事や災害に見舞われればデマを信じてしまう傾向がある、
 大正十二年の九月に起こった関東大震災でも、
「朝鮮人が起こした地震」
 などと言って、朝鮮人迫害が行われたこともあったりして、そのデマというのは、出所にもよるのだろうが、一旦広がってしまうと、どこから発せられたものなのか分かるはずもなく、限りなく伝染してしまう。
 そう考えると、予見や予言というのは実に恐ろしいもので、自分が考えもしないことが自分の不幸として襲い掛かるという本末転倒な話になってしまう。
 予言をすることが自分にとって不幸に陥らせるのであれば、
「実に皮肉なことだ」
 などという言葉で言い表せるものではないだろう。
 しかし、想像力が少しでも勝っている人は、少々の予言くらいは難しいことではない。理論的に考えれば誰にでも思いつくようなことを、いかに自分が予知したのかという風に書いていけば、それが予言小説のように言われるかも知れない。
 今の時代はオカルトというジャンルもあり、超常現象を言い表すことで、新たなジャンル分けに貢献できるのではないかという説もあるくらいである。
 超常現象というものは、実際には人間にとって、何も超常ではないという考えである。
 人間の脳というのは、約十パーセントも使われていないという話である。つまり予知はおろか、テレキネシス、サイコキネシス、さらには瞬間移動すらできるのでないかと考えるのは乱暴であろうか。
 人は夢を見た時、その夢が現実になることがあるという。いわゆる、
「予知夢」
 と呼ばれるものであるが、これも、毎日同じ視線から自分というものを見ていれば内面から客観的に自分を見つめ直せば分かるかも知れないものである。
 しかし、実際には悲しいかな起きていてそれができるというのは難しいことのようで、夢でしかそれを実現させてくれないらしい。
 それは実際に夢の中で見たことを、夢が覚めるにしたがって忘れてしまっているからではないだろうか。
作品名:詐称の結末 作家名:森本晃次