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詐称の結末

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 そんな鬱状態と、何をやってもうまく行くと自分に信じ込ませることで、たいていのことはうまくいく躁状態とが、ずっと繰り返している。
「プラマイゼロ」
 と言ってしまえばそうなのだろうが、果たしてゼロになるのだろうか、最終的に辻褄は合っているような気がするが、ゼロになることはあり得ない。
 そう言い聞かせることが、躁鬱の出口を模索することになる。
 どんなに躁状態が続いても、その後に鬱状態が待っているのが分かっていると、本当の躁状態を見ているような気がしてこないもの、無理のないことであろう。
 事故でも何でもいいから、躁鬱症の状態から抜け出せるきっかけになってくれれば、それはありがたいことであった。
 鬱状態に陥ってからのことだが、言われている鬱状態をじかくするこ都ができる。例えば、興味、悦びの著しい減退、不眠または、睡眠過剰。または、どんどん悪い方に考えるなどの心情が現れてくる。
 そして自分の中で特に意識している鬱状態での印象は、
「何事に対しても価値を見出せない」
 ということであった。
 それまでは何も意識しなくてもできていたことを、必ず何かの価値がないとする意味がないと思い込んでしまうというか、つまり、価値がなければやる気も出ない。そおやる気を見出すだけの価値を見つけることができないというものだ。何をするにも理由を儲ける。よく考えてみると、何もしたくないから、理由付けして何もしないようにしようというものぐさ感覚とでもいうか、子供の頃にはよく感じた思いであった。
 そのうちには、今まで喜びとして甘んじて受けてきたことであっても、いちいち理由付けをしてしまうようになり、
「どうして食べたいと思うのか?」
「どうして眠たいと思うのか?」
 など、本能に近いことまで理論づけて価値を見出そうとすると、それが億劫になり、食事をするのも、眠るのすら億劫になり、しようとは思わなくなる。もちろん、眠たいという意識はあるのに、身体が反応しないのである。
 普段であれば、そんな状態は信じられないだろう。鬱状態に入り込んだことのない人間はもちろん、一度感じたことのある人間であっても、普通の状態に戻ってしまうと、その時の感覚を忘れてしまっているようだ。
 夢に関しても、似たような夢を何度も見ていて、
「ひょっとして、前に見た夢の続きを見ているのではないか?」
 あるいは、
「眠れないという夢を見続けているのではないか」
 というループへの恐怖を感じるような夢を見ているという思いが強かったりするのだ。
 そこに価値観という意識がのしかかってくる。何事も価値観を感じないと、何もできない気がしてしまうと、何もできなくなり、何もできないことがループを繰り返し、そこに恐怖を感じるのだ。これ自体も実はループであり、ループがループを呼ぶという果てしない恐怖が自分を包む。これが俊六の中にある鬱状態という恐怖の正体を形成しているように思えてならなかった。
 この状態は、医学的に、そして心理学的に証明されていることなのかどうかは分からない。勝手に彼が考えているだけのことなのかも知れないが、誰もが似たような感覚を持っているものだと信じて疑わない自分がいた。
 また鬱状態における感覚の特徴として、
「死についての反復思考があり、自殺を考えてしまいがちな精神状態である」
 と思っている。
 普段であれば、死に対してほとんど何も考えないが、鬱状態になると、
「死んだらどうなるのか?」
「死の恐怖というのはどういうことなのだろう?」
 と考えてしまうことだ。
 死というものに対して抱く恐怖については、普段から感じていることがあった。
「死というものに対して肉体的な恐怖、つまり痛いであるとか苦しいであるとかが本当の恐怖なのか、それとも死んでしまうと、この世でやり残したことができなくなってしまったり、最愛の人たちと会うことができなくなってしまうことを感じるからなのか、よく分からない」
 というものである。
 しかし、鬱状態であれば、後者はあまり意識することはない。なぜなら、この世でやり残したなどということがなんであるか、想像もつかないことが分かっているのだし、鬱状態において、人がそばに来ることさえ気色悪いと思っているところに、最愛などという言葉は当てはまるわけもなく、会えなくなることを恐怖に感じることなどないからである。
 そういう意味では、痛みや恐怖を死の恐怖として抱いている感覚になるのだろうか。そんなことを鬱状態では考えてしまうのだ。
 そのくせ、
「死にたい」
 と思うことも多いような気がする。
 ただ、死んでどこにいくのか分からないという意識は残っていて、それはただ今のこの場所にいたくないだけだということになるのだろうか。誰かが近くに来ただけで気色悪いと思うくらいなので、居心地は最悪なのだろうと思う。下手をすると、麻薬中毒における禁断症状の一歩手前なのではないかとさえ思うくらいに感じることから、気色悪いという表現を使っているのだ。
 躁鬱状態がしばらくはなかった。最後は大学受験の時だっただろうか。あの時は自分だけではなくまわりも皆いきり立っているかのような喧騒として雰囲気だったので、いやが上にも鬱状態に引きずりこまれた。
 もっとも、俊六は、
「他人と同じでは嫌だ」
 という性格で、まわりも人に知られないようにしていただけで似たような人も多かったようだ。
 俊六の場合は人に知られても構わないと思って、公言していたので、周知のことだっただろう。人によってはそんな俊六と距離を置くのは当たり前のことであり、俊六に近い人間に、離れるように諭しているやつもいたことを知っている。
 そんな連中を俊六は毛嫌いしていた。自分との関係を人にも同じように促すというのも卑怯な気がしたが、それよりもその男こそ、自分の下手な正義感を振り回しているだけに見えるのだ。
 伝染病が流行った時など、国家の体勢に背くような連中を正義という言葉を盾に、苛めに走る。もちろん、従わない連中もどうかと思うが、正義という言葉を使って自分の行動を正当化するという、
「あざとい正義感」
 にはウンザリさせられるのだ。
 だから、人と同じでは嫌だと思うのかも知れない。子供の頃に、よく父親から、
「一般的な常識のある人間」
 という人と自分を比較して、
「まともな大人になれない」
 と罵倒されたものだったが、子供にそんなことを言ってもしょうがないではないか。
 人に迷惑を掛けるようなことであれば、その場で注意すればいいことであり、分かればそれだけのことなのだ。それを変な説教を並べ立て、いかにも自分が聖人君子であるかのような言い方に、へどが出るほどむかついていた。
 それから、
「一般常識的な」
 などという言葉が大嫌いになり、融通の利かないやつだとして見るようになっていったのだ。
 それが、
「他人と同じでは嫌だ」
 という考えに結び付き、いわゆる民主主義の根本である、
「多数決」
 に対して嫌気がさしてきた。
作品名:詐称の結末 作家名:森本晃次