詐称の結末
「ああ、もうすぐ出口だ」
と感じたのは、暗闇の中で光を感じたというよりも、黄色いハロゲンランプの中のトンネルを走行している車が、トンネルを抜ける時に感じる青い光に似ている。黄色いイメージが瞼の裏に沁みついているので、それを抜ける時は青く感じるのだ。
「黄色ばかりを見ていると、赤い色を想像するのではないか?」
とこの話をした友達に言われたことがあったが、
「そうじゃないんだ。想像するのは青なんだ。きっと外の青空が最初に飛び込んできた光景だからなのかも知れない」
というと、
「というよりも、トンネルの中は黄色というよりもオレンジ掛かっている色に見えるので、そもそもに赤い色が入っているからではないか?」
と言われたが、
「それはあるかも知れないな」
と、迷わずその意見に賛成した俊六だった。
「もう一つ言えば、赤い色を怖がっているのかも知れないと思うんだ。俺は基本的に赤い色は好きで、シャツなんかも赤い色を好んで着たりするんだけど、時々赤い色を見ると、無性に吐き気がしてくることがあるんだ。鉄分を含んだ臭いというよりも、さらに何かの薬品も含んでいるような感じがしてね」
中学時代というと、思春期真っ只中であり、一度、公園にある公衆トイレで、多目的トイレと入れれる場所を使ったことがあった。広々としていて、託児用の台もあったりする、男女兼用のトイレである。
その気持ち悪い臭いがちょうどその時トイレの中からしてきた。それはトイレ独特の臭いという臭いではなく、何か薬品のような、それでいてどこか懐かしい臭いを感じたのだ。
思わず臭いの元を探していると、それが汚物入れの中からだということに気付き、中を開けてみると、その時は何か分からなかったが、ガーゼのような綿のようなものを丸めて、テープで止めていた。
時間が少し経っているからなのか、そのテープが緩んでいて、それがゆっくりと開いた。どうやら女性の生理器具であることを、その時初めて知ったのだ。中はどす黒いほどの血で、よくそれが血だと分かったなと思うほどの真っ黒さであった。その時、俊六は好奇心からだとはいえ、見てしまったことを本当に後悔したのだった。
それから赤い色をあまり好きに思えなくなった。自分が見たのはどす頃い色で決して赤ではなかったのに、赤を気持ち悪いと思うというのは、元の赤さを想像できていたからなのかも知れない。
俊六の中で、
「青は爽快な色で躁状態のイメージ、赤から黄色に掛けての色は鬱状態のイメージ」
と自分の中で勝手に色分けしていたのだ。
鬱状態になった頭の中で、躁状態がくるのが分かるというのは最初からだったが、躁状態から鬱状態になるというのは、なかなか分からなかった。
トンネルのようなハッキリとした残像が頭の中に現れるわけでもないので、感覚でしかないのだろう。
「そう思うと、鬱状態への入り口など齧ることはできないはずだ」
と思っていたが、どうでもなかった。
鬱状態と躁状態の違いを、今では、
「昼と夜との違いだ」
と感じるようになったが、その根本は、躁状態から鬱状態への移行する際には、
「夕方という時間を感じることができるからだ」
と思っている、
どの時点からが夕方なのかは難しい。朝のように日が昇ってくれば朝だというのがないからだ。だが、夕方にはいろいろな時間帯が存在する。日が暮れてしまえば、その時点で夜だと思うのであれば、夕方には、西日が強い影響を及ぼして、影をこれでもかとばかりに伸ばしている感覚があった。
そして日が暮れる前の数十分くらいを、
「夕凪の時間」
というらしい。
「風がまったくなく、無風状態のことを夕凪の時間」
というらしい。
さらにこの時間は、もっとも魔物に出会う可能性のある時間帯として、
「逢魔が時」
という別名もあるらしい。
逢魔が時とはまさに、魔物と出会う時刻という意味で、夕方の薄暗くなる時、昼と夜が移り変わる時刻、黄昏時のことをいうようだ。夕凪と同意語ではないようだ。
この時間帯、交通事故が多発したり、不幸な出来事が起こりやすい時間とされた。
交通事故がよく起こる原因としては、日が暮れる直前には、色が消えて見え、モノクロに見えるため、色の識別ができないことから、交通事故が多いという話になっている。これは結構信憑性のある説に思える。
魔物が出るというのは、どうしても都市伝説の類に違いないが、太古の昔より信じられていることから、これからも言われ続けることであろう。
昼から夜に向かうその時間、昼の最後には、色を感じることのできない時間帯があり、魔物を引き寄せるという意味で、心の中の「逢魔が時」が存在するという意味で、躁状態から鬱状態への移行がこの時間に存在していると考えてもいいのではないだろうか。
今までにあまり感じたことのない鬱状態と躁状態、急に現れてくるのが思春期だというのも因縁を感じる。そのおかげなのか、思春期があっという間に終わってしまったかのように思えた。
実際に、中学時代のほとんどが思春期だったという認識で、中学時代真っ只中では、そんなに毎日があっという間に過ぎるなどという感覚はまったくなかったが、後になって考えると、中学時代があっという間だったように思うのは、夕凪という時間も、ほとんど毎日意識もせずに通り過ぎているからではないかと思っていた。
実際に都会で生活をしていると、夕凪など感じることはほとんどない。夜になってきても、街灯が眩しくて、繁華街などでは、
「眠らない街」
なども存在し、人の流れが絶えることはない。
早朝であっても、早朝から営業する店もあったりして、絶えず人の往来はあるというものだ。
さすがにそんな街に中学生が出没しているわけではないが、毎日を変化もなくすぐしていると、あっという間に数日間であっても、一括りのように通り過ぎてしまうのだった。
そんな毎日を過ごしていると、まわりの景色の変化にもなかなか気づかなくなってくる。下手をすると季節の変わり目であっても意識することもなく、ただ、
「暑くなったな」
と夏になっているにも関わらず、まるで他人事のようにしか感じなくなってしまうようだ
「肌で感じる季節ではなく、行事で感じる季節になってしまうというのは、大人になった証拠だ」
などと親が言っていた時期があったは、本当にそうなのだろうか?
小学生の頃には感じていた。春には春の、梅雨には梅雨の、夏には夏の虫の声が聞こえる。秋になれば、虫のコーラス大合唱である。
秋の虫は不思議なことに、大合唱にありがちな、一つの楽器が目立たないというわけではなく、秋の虫ほど個性的で、魅力のある虫の声はないということを証明してくれているようだ。鈴虫であったりコウロギであったり、松虫であったりと、それぞれの虫の特徴を醸し出しているのだった。
鬱状態にはそれと同じ感覚でありながら、出てくる感情はまったくの正反対だ。それぞれに特徴のあるものが和音として奏でられているが、一足す一が、三にも四にもなって、よくない感覚が倍増されてしまうのだった。
それが鬱状態であり、夕凪や逢魔が時を思わせる時間の正体でもあったのだ。