詐称の結末
「今はとにかくビックリなので、先生の遺作を吟味しながら、出版社の人と協議したりしながら、出版するしないは、作品一つ一つで変わってくると思うので、結構骨のいる仕事になるかも知れないですね。あ、もちろんのことだとは思うんですが、この遺言書というのは、法的に絶対のものなんですよね?」
と俊六が弁護士に聞くと、
「ええ、完全に法律に則って作成されたものですので、当然絶対です」
と言い切ったのを聞くと、俊六は少しうな垂れたような様子になり、複雑な表情をしていた。
―ーなんだってこの人はこんな降って湧いたような喜びしかない条件に対してうな垂れる必要があるんだろう――
と考えたが、それもお互いに一瞬のことで、その時のことは二人とも結構早い段階で忘れてしまったようだ。
「分かりました。今日はどうもありがどうございました」
と言って、弁護士を送り出した俊六は、またしても少し嫌な気分になっていた。
坂上俊六という男、最近躁鬱症に悩まされていたようだったのだ。
躁鬱状態
坂上俊六が躁鬱症を自覚し始めたのは、佐久間先生が亡くなる少し前くらいだった。ちょうどその時に何かショックなことがあったというわけではなく、心の中で抱えているストレスがちょうど爆発したのではないかと思っていた。
それまで神経内科になど通ったことがなかった俊六だったので、まさか自分がこんな状況になるとは思わなかった。
佐久間先生が神経内科に通っていたというのは、俊六だけが早い段階から知っていた。弟子なのだからもちろんのことであったのだが、今度は自分が神経内科に通い始めたということは佐久間先生には内緒にしていた。
その理由はいくつかあるのだが、俊六の中にある種の計算があったのは事実だった。そういう意味で、もちろん同じ神経内科に通うなどという愚なことをするはずもなく、少し離れたところの小さな神経内科に通っていたのだ。
俊六の症状は、佐久間先生のそれよりは、まだ初期段階ということもあり、表に出てくる部分は大したことはなかった。たまにイライラしたり、落ち込んでみたりする程度で、普通に見ると、誰もその状態であれば、何も神経内科に通うほどのものだとは思わないだろう。
だから彼は誰にも秘密にできたのだし、先生ですら欺くことができたのだった。
俊六によって酷かったのは、特に仕事を離れて一人になった時だった。仕事中は一人であったが、仕事をしている時は、それほど異常は見受けられなかった。仕事と言っても彼の仕事はあくまでもアシスタント、先生の相談役であったり、それ以外は雑用に近かったのだ。
「坂上さんは小説を書かないんですか」
と出版社の佐久間担当者の人から聞かれることもあったが、
「いえいえ、まだまだ勉強中です」
と答えるだけだった。
しかし、勉強中ということは、その意志は十分にあるわけで、
「あわやくば、自分の作品を本にできるなどということがあればすごいよな」
と感じていた。
もちろん、作家になるための勉強をしていないわけではない。そうでもなければ、自分から佐久間光映の弟子になどなろうと思うわけもない。
いろいろな作家の中から佐久間光映を選んだのは、彼の作品の「曖昧さ」に惹かれたからだった。
「どうすれば、あんな作品を世に出すことができるんだろう?」
という思いが強かった。
曖昧という言葉、その言葉が持つ曖昧さには、自分が考えているもの以上のものがあることを教えてくれたのが、佐久間作品だったのだ。
「佐久間作品には、限りない可能性を感じる」
というものだった。
しかし逆に佐久間作品には、
「限りなく可能性は低いがゼロではない」
という作風が見え隠れしているようで、それは限りない可能性を秘めていると感じたことと矛盾しているように思えた。
だがこの矛盾を解決してくれるキーワードが、
「曖昧さ」
だったのだ、
彼が感じた曖昧さと、可能性に対しての正反対の感覚が一つになると、どうにも忘れることのできない作品になるような気がした。
考えてみれば、
「逆も真なり」
という言葉が示すように、左右対称のものを重ねて、それがピッタリと一致すれば、それはまったくの正反対であり、一種の
「プラマイゼロ」
を作り出すことであり、これがまた、
「限りなく可能性は低いがゼロではない」
という言葉と矛盾しているようで、何ともおかしな感覚ではないか。
それこそが佐久間ワールドだと思うと、自分が目指すものが見えてきた気がした。
その矛盾を解決し、自分のものにできたならば、
「ひょっとすると、佐久間先生よりもすごい作家として自分も活躍できるかも知れない」
と感じたのだ。
他の作家の作品をいくら研究しても、その結果、すぐに自分もその作家と同じような作品を書けるような気はしなかった。その作家の作風が難しいとか、独特だとかといういいではない、難しさや独特さは、むしろ佐久間先生の方が強いのではないかと俊六は感じていた。
曖昧さであったり、可能性であったり、ゼロであったり、このあたりが佐久間先生のキーワードだと気付くまでにもかなりの時間が経つだろう。
しかし、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
という言葉もあるではないか。
つまりは、まだまだ自分は道半ばだということを自覚していかなければ、先に進むことはできないということを示している。
佐久間先生にどうすれば近づけるか、近づけば近づくほど、この気持ちは大きくなってくる。別に先生は自分から逃げているわけではないのに、その大きさが変わらないのだ。
その感覚は、佐久間作品の曖昧さが示しているからなのか、今まで曖昧だと思っていたことが実はリアルなものであり、そのリアルな部分が見えてきたからなのか、俊六にはまだ分かっていなかった。
俊六が躁鬱症を気にし始めてから病院に行くと、
「何かあなたの場合は、ストレスに繋がるまでのジレンマが感じられるのだが、何か心当たりはありますか?」
と言われた。
ストレスにジレンマはある程度セットのようなものだと思っていた俊六だったので、それを言われて何となく違和感を抱いたのだが、
「今のところありません」
と答えた。
これは半分本当で半分ウソだった。ジレンマは間違いなく感じているのだが、そのジレンマは自分の中で解決済みだと思っていた。なぜならジレンマが理由で躁鬱になるのであれば、もっと前からのはずだからである。しかし、ストレスが蓄積されるものだという理屈を忘れていたことから、ジレンマがストレスとして蓄積されていることでの躁鬱であるという意識が欠如していたのだった。
それが、俊六の思いであり、その時の考えであった。
躁鬱症というものは、躁状態と鬱状態が定期的に繰り返されるもので、その感覚を俊六は感じていた。一番最初にそれを感じたのは中学生の頃であっただろうか。ひょっとすると最初に陥った躁鬱状態が、今までの仲で一番躁鬱を繰り返していることに敏感だったかも知れない。
あの頃は最初から自分が躁鬱を繰り返していると感じていた。最初は鬱から入ったのだが、鬱から抜ける感覚を自分で知ることができた気がした。