詐称の結末
パーティも佳境に入ってくると、いよいよ俊六の気持ちが少し落ち着きがなくなってきたような気がして、人の多さが余計に鬱陶しさを感じさせるのであった。
コンパラトキシン
受賞者の女の子は、まだ未成年ということもあって、アルコールは?めなかった。しかも高校生ということもあり、翌日は学校ということもあり、パーティ自体は午後九時までとなっていた。
実際には二時間ほどの時間だったが、俊六には思ったよりも長く感じられた。大久保氏や高杉氏と話をしたからかも知れない。
このようなパーティ自体、あまり好きではない俊六だったので、時間が長く感じられるのはしょうがないことであったが、それ以上に、いつも執筆に使っている時間がどれほど短いかということを感じさせるという比較対象となり、不思議な感覚を味わっていた。
最近、小説を書くようになり、毎日が充実している。記憶が欠落してしまうという問題を抱えているので、どうなるかと思っていたが、集中しているとその問題はあまり関係なかった。ただ、執筆の間をあまり開けてしまうと、本当に前に書いていたことを忘れてしまう。そういう意味でも、毎日の執筆は欠かしてはならなかった。
ただ、次の作品までのアイデアを捻り出す時間と、今回書いた作品の推敲に使う時間はゆっくり取っても大丈夫だった。だが、俊六はそんな時間でも集中して考えることで、それほどの時間を費やすこともなかった。次作のアイデアも、二日と置くこともなく発想が思い浮かび、そこからプロットの作成までに時間が掛かることはない。元々プロット作成までは以前からできていたのだから、無理をしているという意識はなかった。
小説をいうものを、段階で分けると、アイデアを拾い集めること、プロットに仕上げること、書き始めから書き終わるまで、そして最後に推敲。この段階に分けることができるだろう。
一番時間が掛かるのは書いている時間であることが間違いないが、なるべくであれば、
「書き始めるまでに、すべては終わっている」
という段階にしておくことができれば最高だと思っていた。
執筆の段階というのは、集中力だけで、文章の構成などを考えるだけでいいと思える時間にすることで、余計なことを考える必要もなく、物語を組み立てることができるというものだ。
だから、二時間くらい集中して書いていても、自分の感覚としては、二十分くらいのっものだという意識である。
こうなると、記憶を欠落するという欠点も補うことができて、プロットを忠実に形にできる、
そもそもプロットというのは、作家の人は基本的に皆作るものであって、設計書であり、企画書のようなものだ。
つまり、出版社との契約の中で、作品を執筆する許可が得られるかどうかは、プロットのできに掛かっている。
プロットの内容に沿って、出版社はこの作品の宣伝が打てるのであるし、
「これなら売れる」
という出版社全体の意識をプロットを見ての編集会議で決めるからである。
ただ、俊六は実際にプロの作家がプロットをどのように書いているのかを見たことがなかった。
弟子でありながら、佐久間先生も彼にプロットを見せることはなかった。出来上がった作品を読んでもらい、そこで初めて先生の作品に触れることができるのだ。
つまりは完成品を拝むことで、やっと作品に触れることができ、参加することができる。佐久間先生の弟子としてできることは、この推敲という作業から先のことであった。
まずは、誤字脱字がないかどうかの確認。そして何度か読み直して、作品の中での矛盾がないかどうかの確認。このあたりは集中して書いていると、なかなか気づかない部分であり、しかも推敲を作者がしようとすると、自分の中で、
「正しく書けている」
という思い込みがあるために、間違いをスルーしてしまうことも無きにしも非ずであった。
それを是正し、世に出す前の体裁を取り繕うところ、そこを担うのが助手としての仕事であった。
本当はあまり好きな仕事ではなかった。それは、自分で執筆するようになってから、余計に感じることである。
「これくらい、俺にだってできる」
と思うような仕事、それが後始末であり、今は自分の作品の最後まで面倒見なければいけなくなったことで、先生の最後の部分だけを補正していた自分を、情けなく感じてしまうのだった。
プロットを作るという作業は、学生時代にはしたことがなかった。とにかく思いついたら書き始め、書いているうちに何とか形にしようとしてしまう。ただ、そうなると、最後は支離滅裂、広げてしまった内容をいかに収めるかが難しくなってくる。
これがプロットを作らずに進めることの一番のデメリットだった。
ただ、プロットというのも人それぞれだ。しかも、その人の性格によって、プロットをどのようにするか、そのあたりから考えないと、せっかく作っても無駄になってしまう。
最初にある程度まで落としたプロットを作成しておくに越したことはない。何しろ設計図なのだから、最初にキチンとしている方がいいに決まっている。
しかし、人によってはあまりプロットを完全に作りすぎてしまうと、実際の話を作る時に、文章が成り立たない状態になることもあるらしい、
「プロットを作ってしまったことで安心してしまう」
ということである。
プロットを作っても、それをそのなま発表するわけではない。そこから読者が読めるように清書するのが小説を執筆するということだ、プロットの段階で安心してしまうと、途中までできてしまった作品がおろそかになってしまうこともある、肝心な表現力が低下してしまうのだ。
そんな人はプロットを完全に仕上げない方がいい。書きながらいくらでも修正がきくように余裕という遊びの部分を作っておくことが、執筆には必要だ。一つの情景を言葉だけで表現しようとすると、いくつもの文章になってしまう。それが写生というものではないだろうか。
写生をすることで、相手にその状況を想像させ、作者と読者は同じ視点から物語を見たり、読者が少し自分よりも低い位置から見ることができるように細工することが作者のテクニックであり、小説執筆の醍醐味と言えるのではないだろうか。
プロットを先生が見せてくれなかったのは、人それぞれで書き方が違うということを無言で教えたかったからではないかと今では思っている。
プロットも箇条書きにする人や、まるであらすじを書いているかのような文章として残している人もいる。
セリフ部分をシナリオのようにして、そこを強調している人もいれば、四コマ漫画を描いているかのような絵コンテにしている人もいるだろう。
それが正解というわけでもない。その人のやり方なのだ。
絵が下手な人に、
「四コマ漫画がいい」
などと言ってマンガを書かせても、マンガを描くことに集中してしまって小説であることすら忘れてしまうこともあるだろう、
登場人物は、ある程度書き方は決まっているかも知れない。