詐称の結末
のように思っているかも知れないが、その発想が文学の世界を狭めていることに気付いていないのではないだろうか。
そういう意味では、彼らにとって幻想小説がどのように写っているのか、実際に彼らの頭になって見てみたいものだと感じる。想像を絶するものに写っているのかも知れない。
高杉という評論家は、さらに変わっていた。彼は佐久間先生の作品をコケおろすにも関わらず、俊六の作品には一定の評価を与えていた。
「彼の作品には、幻想的な発想が滲み出ていて、すでに佐久間光映のそれを超えた」
と言わしめるほとであった。
もっとも、完全にコケおろしている人を引き合いに出して、
「それを超えた」
と言っても、どこまで信憑性のあるものか、考えさせられる。
俊六の作品は、基本は耽美主義であったが、それだけではない幻想小説の世界が広がっていた。
むしろ、耽美主義ではない幻想小説の世界を開こうと、独自に発想しているのが彼の作風だった。
言葉としては難しいが、一言でいえば、
「幻想小説の限界に挑戦」
とでも言えばいいのだろうか。
俊六にとって、幻想小説というジャンルは今まで佐久間先生についてきて、ある程度その幅を教えられたような気がしている。さらにそこを一歩進めて、耽美主義との決裂という冒険的な発想を抱いたのは、ひょっとすると、師匠である佐久間先生への挑戦ではないだろうか。
それを感じている評論家もいるようで、
「彼の作品には佐久間先生にはない幻想部分を感じることができる」
という批評を見ることができる。
その発想を強く抱いているのが、大久保氏であり高杉氏であった。
二人の評論家は、決して似たような発想をする人ではない、お互いに違う視点を意識しているように思うくらいに見え方が違っているところがあるが、佐久間先生と俊六との関係性においては、酷似しているところがあるという一種矛盾しているかのように思える共通点があったのだ。
二人の評論家の一致した意見は、俊六に対して、
「さらなる幻想小説への探求」
を求めているところであった。
俊六もそれが分かっているので、二人にそれなりの敬意を表しているが、高杉氏に関しては、どうしても人間的に好きになれないところがあった。
「やっぱり、先生を批判しているところが許せないのかな?」
と感じていたことであろう。
そもそも俊六が耽美主義の小説と巡り合ったのは、本で読んだからではない。あれは中学の頃だったか、江戸川乱歩、夢野久作などの小説を読んでいて、
「俺もいずれは小説家になりたいんだ」
と言っていた友達がいたが、そいつが文芸部に所属し、当時の文芸部は文化祭に向けて一年に一度、機関紙を発行していた。同人誌と言ってもいいような内容で、小説はもちろんのこと、ポエム、短歌、マンガに至るまで、文芸と呼ばれるものであれば、何でもオーケーという雑誌だった。
元々は文芸部員だけの本だったが、一般からも公募するようになり、公募がそのままコンテストに変わっていた。審査員はコンテストに応募していない文芸部員が賄うとして、その友達は、コンテストに応募していた。
当時の中学生は、結構ファンタジー系の小説が多く、ただ今のような某出版社系のような異世界ファンタジーとは一線を画するものだが、それが俊六には新鮮に見えた。
エログロなど猟奇的な発想など、結構何でもありで、ただ、中学生ということもあり、一応発行に際しては、学校の先生による検閲があった。
それでも、表現の自由という観点が根強かったので、コンテストへの参加を見送ったり、同人誌への発表を見送るような作品はほとんどなかった。
そんな中で友達の作品は、耽美主義のものが多く、最初は耽美主義などという言葉を知らなかったので、
「こんな小説がこの世に存在するんだ」
という意味で、かなり興味をそそられたのも事実である。
小説を書いていると、その時の感動をよく思い出す。友達は自分の作品を実際に、
「耽美主義の作品だ」
と自分で言っていたので、意識して書いていたようだ。
それがジャンルとして存在しているわけではないので、主義という言葉には逆に説得力を感じる。
「美を追求すると、どうしても、汚らしいものとの比較になるような気がするんだ、耽美というのは、エログロと紙一重ではないかと思うので、エログロをジャンルのように考えて、耽美をテーマにしたような小説を書こうと思うと、表裏一体の作品ができるんじゃないかって思うんだ」
と、その友達は言っていた。
「そうだよね。長所と短所は紙一重っていうしね」
というと、
「ここでいうエログロと耽美主義とでは長所と短所という意味合いとは違うものを感じるんだ。エログロの中に耽美があり、耽美の中にエログロは存在しているかも知れないが、長所が決して短所になったり、短所が決して長所になったりはしない。似たものに見えているかも知れないが、実は違うものなんだ。そうじゃないと、長所と短所を比較なんかできないからね」
と彼は言った。
「そうかも知れない。でも、僕はエログロというものも、耽美というものも、どちらも長所に含まれたり、短所に含まれたりするような気がするんだ。つまり並んでる長所と短所の上にまたがっているかのように感じるというか……」
と俊六がいうと、
「それも一つの考えさ、僕は僕の発想で、エログロや耽美主義というものを見ているだけのことだからね。君も小説を書いてみればいい。耽美をテーマにするか、エログロをテーマにするか、その路線で考えるとどんな話が出来上がるか楽しみだ」
と言われた。
俊六は、エログロと耽美主義とどちらに興味があるか考えてみた。だが、その結論は出てきそうにもない。それぞれに魅力があり、どちらも自分とは程遠い感覚であると思ったのだ。
「もし、小説が書けるとすれば、僕の中でどっちが近くに感じられるかということが分かった時かも知れないな」
というと、
「ただ、エログロという発想も耽美主義という発想も、近づけば近づくほど、ボヤけて見えてくるように思うんだ。というのは、今は適度な距離を持っているから、視界の焦点があって綺麗に見えているかも知れないが、近づきすぎると、見えるものも見えなくなってしまうのではないだろうか」
「そんなものなんだろうか」
と俊六は頭を傾げてしまった。
コンテストでは、彼の作品は最終ノミネートもされなかったが、彼は他の人には見せないと言っていたその作品を見せてくれた。
その作品は近未来の話で、美を追い求める男性が女性を生きたまま冷凍保存するという話だった。
設定としてはよくある話ではあったが、目覚めた女性が目にしたのは、別の世界であったという発想である。
その世界は美に関しての法律が確固たるものになっていて、冷凍保存される前の考え方とはまったく違っていた。
その発想には、まずある時期に、人類が死滅するという大きな戦争があり、生き残ったのはごく一部の人たちであった(これもよくある設定ではあるが)。
自分たちがさらに生き残るためには生身の身体ではなく、機械の身体で生き残ることを最優先として、その機会であるがゆえに、「美」を追求することが求められた。