意識の封印
「りえちゃんは、どんな洋服を着ても、僕にはずっとイメージは変わらない気がするんだ。もちろん、いい意味でね」
と思い切って聞いてみた。
こんな聞き方をすると、相手に失礼に当たるかも知れないという思いもあるが、
「いい意味で」
と付け加えることで、どうしてそんなことをいうのかという疑問に対しても、少しは緩和された気持ちになるかも知れない。
「それはよく言われることなんだけど、実は私、そのことを意識しているところがあるの」
「どうして?」
「普通、女の子はイメージを変えるために、お洋服を変えたりするでしょう? でも私は服装だけでイメージが変わってしまうと、何かコウモリにでもなったかのような気がしてくるのよ」
「それは、鳥に遭っては自分を獣だといい、獣に遭っては自分を鳥だということの意味の?」
「ええ、風見鶏のように見られているようで、小学生の頃から、それが嫌だったの」
「小学生でよくそんな発想があったね」
「小学生の頃に見たテレビアニメで、似たような話が出てきたのがあったのよ。それを見て、少し怖い気がしたのよ」
――なるほど、りえがまわりを気にしているくせに、まわりがりえの考えていることに気付かないというのは、こういう発想から来ているのかも知れないな――
と感じた。
コウモリという発想は、初めて聞いたような気がしなかった。直子と見ていた時の記憶が後から思い返した時、コウモリという形でよみがえってきたのかも知れない。
これをデジャブと呼ぶには少し違うかも知れないと感じるが、コウモリの発想は自分がしたのには違いないので、デジャブに変わりはないだろう。
りえを見ていると、どこまでかおりに似ているのか考えていた。
――双子と言われるほど似ているとはどうしても思えない――
今でこそ体系で雰囲気が違って見えるが、昔は似ていたのかも知れないということを考慮に入れても、それほど似ていないように思えた。
「世の中には三人ほどよく似た人がいる」
と言われているので、似ている人がいたとしてもそれは不思議なことではないが、双子とまで言われるほど似ているというのは、顔だけが似ているというだけではなく、性格であったり、性質、あるいは性癖すら似ているのではないかと思えるかも知れない。
ドッペルゲンガーという言葉があるが、それは似ている人というわけではなく、本人そのものである。
「見ると死ぬ」
といわれるようだが、この二人に関してはそんなことはまったくないだろう。
コウモリを怖がるというのは、もう一つあった。
「コウモリは目が見えない」
と言われている。
そのため、超音波を発生させて、その音の反射で、まわりに何があるのかを確認する。それだけ神経をすり減らすものであり、疑心暗鬼に陥っても仕方がないと言えるのではないだろうか。
そういえば、竜馬は大学に入って読んだミステリーにコウモリをテーマにしたものがあった。
相手をそれぞれ欺く発想は、ミステリーには恰好の題材と言えるだろう。またテレビアニメにしても、目が見えないという特徴と、さらに日和見的な発想が、名わき役の特徴を描いていると言えるのではないだろうか。
「ジキル博士とハイド氏」
のような二重人格という発想にも繋がってもいる。
コウモリというと、吸血鬼というイメージもあり、いわゆるドラキュラの発想もある。ドラキュラというと人の血を吸うだけではなく、血を吸った相手をドラキュラにしてしまうという効果もあるのだ。
自分が生き残るために多種多様な能力を持つコウモリ、目が見えないという弱みをいかに克服するか、それがコウモリにとって一番重要なことだ。
人間というのはどうだろう。人は本能という意味で他の動物に絶対的に劣っていると言われている。だからその劣勢を克服するために、知恵というものがついた。だが、その知恵にはいいものもあれば悪いものもある。
確かに世の中は弱肉強食の、
「強いものが弱いものを食する」
という意味で、むごい世界であるが、それこそ自然の循環によるもので、いわゆる、
「往復循環」
という発想が生まれてくる。
人間も動物の中では弱い部類に入るので、よくコウモリになぞらえられることもある。特に、日和見的なところであったり、人を食うことで相手にも自分の仲間に引き入れるというドラキュラ的な発想である。
そもそもドラキュラという話だって、何か伝説のようなものがあったのかも知れないが、実際にはイギリスの作家が書いた恐怖小説である。いわゆる架空の話などである。
さらに、ミステリー作家にも、
「吸血鬼」
というタイトルの小説を書き、タイトルの由来を、
「犯人が吸血鬼のような人間だから」
という発想である。
つまり、人間の奥深い深層心理の中に、ドラキュラ的なものがあると言ってもいい。人の血を吸うことで、自分の仲間を増やすという発想、それはドラキュラに限らず、他にもあるかも知れない。
だが、りえの場合は、ドラキュラの発想と当て嵌まらないところがある。彼女は何を着ても、イメージを変えることはない。カメレオンのように、
「朱に交われば赤くなる」
というようなものではない。
カメレオンというのは、自分を襲わせないように、身体の色を巧みに変えて、外敵に自分を索敵されないという、
「生きるための防衛手段」
なのである。
これはコウモリに似たものであり、弱いという自覚がある証拠である。
きっと、他の動物は本能とともに、
「自分たちは弱いんだ」
という意識を持つことで、まわりの敵が何であるか的確に理解しているのだろう。
それが当てはまらないのは、人間だけではないだろうか。
だが、この発想も本当はおかしいのではないかと思う。なぜならこの発想こそ、
「人間至上主義」
であり、
「人間こそ他のいかなる動物よりも進化していて、まるで選ばれた種族なのだ」
と言えるのではないだろうか。
他の動物たちは死に直面していても、自然の摂理に逆らうことをしない。そこまでの知能がないのかも知れないが、それも人間が勝手に思っていることだ。人間に欠けているもの、それは謙虚さではないだろうか。
よく言われることとして、
「利己的な理由で殺戮を行うのは人間だけである」
というのも正解ではないだろうか。
他の動物が行う殺戮は、
「生きるため」
であり、生命の危機に直面したことで、やむ負えず殺戮を行う。
それは食べるためであり、自分が殺されないようにするためである。
人間には知恵があるため、直接的な生死にかかわることでなくても、死の危険を絶えず考えているのかも知れない。それこそ人間は不安だらけであり、その不安が時として知恵という形になって身を守ることに繋がっていくもので、逆に疑心暗鬼に陥ると、まわりがすべて敵に見えてくるという症状にもなる。そういう意味で、精神的な病に罹るというのは人間だけなのではないだろうか。(そもそもこの発想こそが、人間中心になってしまうのだが)
竜馬は直子のことを思い出していた。
直子はほとんど自分の本音を言わない人だった。それ以上に言葉にすることが苦手なのかとまで思っていた。そんな直子を、
「守ってあげたい」