意識の封印
と思ったが、彼女の胸の鼓動の大きさだけはハッキリと感じることができた。
「僕、初めてなんだ」
と正直に答えると、彼女はビクッと小躍りしたかのように感じたが、それを感動してくれたものだと思ったのは、都合のいい考えであろうか。
「大丈夫。私に任せて」
と、想像した返事そのままに彼女は答えてくれたが、想像通りなのはセリフだけで、声のトーンなど、実際にこの耳で聞いたのかと思うほど、違和感に包まれていた。
大学三年生にもなってまだ童貞だったことが恥ずかしかったが、それよりも彼女が避暑所だったことにビックリさせられた。
「前に付き合っていた彼とね」
といって、その時初めて彼女に最近まで彼氏がいたことを知らされたわけだった。
彼女の話を聞く限り、
「なんてひどい彼氏なんだ」
と口に出して怒りをあらわにしてみたが、それを見て彼女は寂しそうな顔をしたが、ほぼ無表情だったと言ってもいい。
基本的に彼女の無表情さは、悲しい表情を模倣しているかのようだったからだ。
「確かにひどい彼氏だったかも知れないけど、最後まで優しかった気がする」
といっている。
――彼女の感じる「優しさ」とは何なのだろう?
と自分の考えだけで理解していいものなのだろうかと思った。
――優しさとは人に対してのものと、自分に対してのものとがある。人に優しい人は自分にも優しい、自分に優しい人が他人に優しいかといえば、ハッキリとはいえない――
と感じていた。
――なぜ僕はりえを気にしているんだろう?
好きな人へのイメージが忘れられないというのは間違いのないことだった。だが直子のイメージがそのままというわけではない。そして、直子と同じイメージの人を好きになるということはないように思えた。直子という女性はすでに過去の人だという思いが強いし、あれから何年経っているのか、考えると忘れてしまっていない方がすごく感じるくらいであった。
りえと個人的に知り合うことができたのは、それから少ししてのことだった。竜馬はまだ小説執筆を趣味として続けていた。プロになろうなどという大それたことはすでになくなっていて、一日に一時間ほどでも書く時間を持つことができれば、それでいいと思っていた。
この頃になると、昔のように書くことを億劫に感じる自分がどこかに行ってしまったようで、ただひたすら書いているというのが、実情であった。
ずっと我流で書いてきて、今までは我流でもいいと思っていたが、急に基本を知りたくなってきた。以前に読んだハウツー本と変わりのない内容なのかも知れないが、添削もしてくれるのであれば、実践としてはありがたいと思っていた。そう思っていろいろ探してみると、何とか今のお金で通ってみてもいいかなと思うような講座を見つけた。
定員とすれば、十数人くらいなので、小規模と言ってもいいだろう。数回ほどの講義なので、無理なく行けると思った。申し込んでから一回目の講座を受けに行った時、座席の一番前に鎮座している女性がいたので気にしてみたら、どうやらそれがりえだったのだ。
さすがにお店とは雰囲気が違っていたので、イメージも違った。思わず名前を呼ぼうかと思ったが、お店では本名ではないだろうから、何と声を掛けていいのか分からず、少し声を掛けるタイミングを逸した。
そのうちに、
「あれ? 竜馬さんじゃないですか?」
とりえが声を掛けてくれた。
あの店で本名を使っていたのが、却って功を奏自他のかも知れない。
「君もこの講座に?」
と聞くと、
「ええ、私、短大をこの間卒業したんだけど、一度小説を書いてみたいとは思っていたので、ここに通っていることにしたんです」
二十歳は過ぎているのではないかと思っていたので。それほど驚きはしなかったが、短大を卒業してでもまだ勉強したいと思うのは頭が下がるような気がした。
「短大ではどんなことをしていたんだい?」
「専攻は国文学だったんですが、講義を受けているうちに小説を書いてみたくなって、大学時代から書いてみようと何度か試みたんですが、ずっと書けないまま卒業して、やっと今になって、講義を受けて、もう少し踏み込んで勉強してみようかって思ったんですよ」
「それはいいことだよ」
と言ったが、それは自分にも言えることだった。
「竜馬さんはどうしてですか?」
と聞かれ、
「僕は、結構昔から小説を書いてみたいと思っていたんだ何度も挑戦したんけどなかなか書けるようにならなくてね」
というと、
「お店で書いていませんでした?」
「うん、我流でずっと書いてはきたんだけどね。でも、もう一度基礎を習ってみたくなったというところかな?」
「じゃあ、完成した作品がいくつもあるんですね?」
「そうだね。そんなにたくさんはないと思うんだけど、とりあえず、自分の中ではひと段落するくらいという感じかな?」
何がひと段落なのかよく分からないが、りえにもきっと分かっていないだろう。
「りえちゃんは、今までに完成させた作品はあるのかい?」
「短い作品を数本くらい書いたことはあります。でも自分で自信が持てる作品というわけではないんですよ」
「本当は自分が納得する作品が一番いいんだろうけどね。でもプロの作品であっても、世間が認めてくれたものを作者自身が認めないということもあるようなので、作品をどう感じるかというのは、難しいところがあるんじゃないかな?」
「私はどちらかというと、自分の思っていることや書きたいことを表現できればいいと思っているんです。人に求めてもらおうとかいう考えは二の次ですね」
「じゃあ、プロを目指すような気持ちはないということかな?」
「ええ、そうですね。それにプロになってしまうと、自分の書きたいものを書くという大前提が覆されてしまうような気がするんですよ。だから、私はプロを目指しているわけではないんです」
その日の講義が終わって、竜馬はりえをまだ食べていないという夕食にりえを誘ったが、彼女は別に断ることなくついてきてくれた。
りえは話をしていると、どうやら彼女は今、コスプレ喫茶と別にもう一つ仕事をしていて、それで生計を立てているということだが、それで小説を書いてみたいと思うところはさすがだと思った。
「竜馬さんは今までの自分を題材にしたりされますか?」
と、りえが聞いてきた。
「そうだね、僕は結構自分の経験からが多いような気がする。ただ経験と言っても、薄いし、大したものではないので、どこまで経験と言えるかどうか」
というと、
「そこから先が想像というわけですね。私もそんな作品を書けたらいいと思っているんですよ。私もそんなに経験が豊かなわけではない。だから一つの経験から、いくつも発想できるようになれるというのが、今の最大の目標なんです。その意識を持って、今度の講座を受講していると言っても過言ではありません」
というりえからの返事だった。
「僕の場合は、高校生か、大学生を主人公にすることが多いんだよ。やっぱりその頃の思いが何か引っかかっているのかも知れないな」
というと、
「その思い出というのが、何か成就するものだったのか、それとも何かを望んで成就しないことで、小説の中で成就させたいと思うものなのかですね」