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意識の封印

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 という認識であるが、それはあまりにも漠然としていて、マンガやアニメ、SFのような話を好む人をヲタクというのであれば、それは別に毛嫌いするものではない。それぞれにちゃんと文学として芸術として認識されているものであって、市民権も得ているという意識があるからであった。
 大学生になると、いろいろな人がいる。ヲタクも結構いたが、話をしてみると、自分が嵌っていること以外でも結構知識を持っていたりする。そんな連中を、
「ヲタクだから」
 という理由で遠ざけるのはフェアではないと思うようになった。
「自分は自分、人は人」
 である。
 ただ、ヲタクと呼ばれる人の中に、自嘲的な人がいるのも事実だ。
 堂々としていればいいものを、
「ヲタクだと思われたくない」
 という思いから、自分を見失っている人である。
 そんな連中をヲタクとして一緒にしてしまうと、どうしても偏見の目で見られる原因になっているのではないかと思う。見ている方も見ている方だが、自嘲的な人がヲタクだという意識を持つこと自体、嫌な気がした。
 フェチに関しては、
「変態じゃないか?」
 と言われるかも知れない。
 しかし、変態であっても堂々としていれば、それはあくまでも個性だとしてk名が得ればいいことではないかと思う。爪に凝る人がネイルという趣味をするのと同じで、身体の一部のどこを好きになったとしても、それは自由なはずだ。
「ネイルはいいが、パンストフェチなどは変態だ」
 と言われるのは心外な気がする。
 確かにSMなどの性的に特化したプレイには、パンストや網タイツなどの衣装が一般的だが、だからと言って、SMであっても、これは中世欧州であれば、
「貴族の嗜み」
 と言われた時代もあるくらいで、これも立派な個性ではないだろうか。
 すべての性的に特化したプレイを変態呼ばわりするのは、それこそ性的営みに対する冒とくであり、下手をすれば、子孫存続をも脅かす理論に発展しかねない。それを思うと、自分だけの道徳をひけらかす人たちが集まることの恐ろしさを痛感させられるような気がするのだ。
 そうは言っても、それは気持ちとして思っているだけで、声に出して言うだけの勇気はない。そもそも何に対しての反論なのか、何かの定説があっての反論でなければ成立しない。
 要するに、自分の理論を自分で正当化しているだけであった。
 世の中には、多数派がすべての正義だと思っている人も大いに違いない。民主主義というのが多数決の賜物であることから、そういう意識になるのだろうが、逆に少数派が多数派よりも意見の濃い発想を持っていて、説得力がったとしても、
「多勢に無勢」
 という言葉もあるが、勝つのは基本的に人数が多い方である。
 つまり、勝つことがすべての正義であり、世の中というものが、
「勝負ありけりが前提」
 であるということである。
 勝つ人がいれば負ける人がいる。負けた人はどうなるというのだろう?
 そんな問題提起をするのもドラマであったりマンガであったり、アニメだったりする。ひょっとするとそれらの文化をヲタクと表現するのは、少数派を多勢にしないようにするという目的が裏に隠されているのでかも知れない。
「それこそこじつけで、少数派を正当化しているだけだ」
 と言われるかも知れないが、それはそれでもいいと思った。
 こうやって書いてくると、自然と竜馬が自分のヲタクだったり、フェチとしての変態だったりという自覚を持っているのではないかと思われるだろうが、その意識はあっても、それを自分で正当化できるまでの信憑性を感じることができるようになるまでにはかなりの時間が掛かった。
 時代というのは流れるものである。いわゆるブームという意味であるが、一つのブームが起こると、それから数十年すればまた同じブームが起こったりするというのは、結構言われていることである。
 店にしてもそうであり、サブカルチャーとして存在しているヲタクやフェチの巣窟ともいえるいわゆる「メイド喫茶」や「コスプレバー」などのようなサブカルチャーの店などは、
「五年から十年が周期だ」
 と聞いたことがあった。
 出現したのがここ二十年くらいで、その間に数回のブームがあったのだからそう言われるのだろう。それにしても短いものである。
 当初の頃は、一部地域にしかなかったが、全国に波及し、それぞれ大都市の一部に、サブカルチャー文化が芽生えていったということであろう。
 竜馬は当初のブームを知らない。
「メイド喫茶なんか、一部のヲタクや制服フェチが通うだけで、同類に見られたくない」
 という思いが強かった。
 そんな感情を一度は持ってしまったお店の常連になるというには、かなりのハードルが必要になる。そのハードルには何段もの段階があり、高さも様々だ。つまりは必然だけでは事は運ばず、偶然の賜物を手に入れなければ、達成できるものではないということを証明しているかのようである。
 そういう意味では、年齢の積み重ねや時間の経過というものが不可欠であったとすれば、さらに時代の流れも竜馬にそれなりの影響を与えたに違いない。時間というものは誰にでも平等であるが、時として、時間というものを意識した人にはひいき的なのではないかとも思えた。
 メイドカフェを中心としたサブカルチャーの店は、街の中でも一部の地域に多く存在する。他の地域と隔絶された場所という雰囲気なのだろう。
 夜になると、近くではスナック、バーなどが開き始めるが、この界隈では、店に入ろうとする人は、まわりを気にするように入っていた。
 竜馬が最初にそのお店に立ち寄ったのは、ただの偶然だった。元々メイド喫茶というものを話には聞いていたし、ドラマでも見たことがあったので、そのイメージがあったことで、
――こんな店には行きたくないな――
 と思っていたはずなのに、この界隈に入ってくると、まるで魔法にかかったように、どこかのお店に入りたいという衝動に駆られていた。
 一つは、歩いている街並みに怖さを感じた。人が歩いているわけではなく、その分、ビルの間の扉から、どんな人が出てくるか分からないという恐怖があった。
 歩き続けるのが怖くなったが、少し歩いていると、怪しげな青年がまわりを気にしながら歩いている。見るからにヲタクと思えるようだったが、どうやら、店に入ろうとしているのだが、まわりの目を気にしているのだ。
――誰がいるわけでもないのに――
 一人だけだったはずなのに、どうしてまわりが気になるのか不思議だった。
 それがヲタクの特徴なのだと思うと、ヲタクに対して偏見を持つ気持ちも分かる気がした。なぜなら、ヲタクを見る偏見よりもヲタクが見られている偏見の方を強く感じていると思うと、ヲタクを悪くいうのも、ヲタク側からすれば、
――自業自得なのではないか――
 と思うようになった。
 その男は今から店に入ろうとしているのかと思ったが、実は出てきたところのようだった。オタオタしていたのは店に入るタイミングを計っているようではなく、出てきたところを見られたのではないかと思ったのだろう。その男は竜馬の存在を意識することなく、まわりに誰もいないと思ったのか、急に早歩きで大通りに消えて行った。
作品名:意識の封印 作家名:森本晃次