意識の封印
最初気付かなかったものをどうして急に瞼の裏という確信的な感情として思ったのか、そこに中学時代を飛び越えた理屈が隠れているように思えた。
中学時代を思い出すと、実は何も出てこない。思春期で、いろいろなことを自ら望む望まないを別にして習得したはずだった。悪友からもたらされた女性への神秘。そして、それを見て反応した自分の身体の神秘。そんなものをすべて通り超えてきたはずなのに、それが意識として残っていないのは、
「意識というものに、いくつもの『箱』があるからではないか?」
と思うようになった。
どこかで関連しているかも知れないが、意識は格納される場所が違っているのかも知れない。
それを誰も意識することなく成長してきて、
「あれは思春期だったんだ」
という一言で片づけてしまおうというのではないだろうか。
思春期に衝撃を受けたのは竜馬だけではない。いや、竜馬のごときは衝撃というにはあまりにも幼稚で、他の人は自分の身をもって、いろいろな経験をし、成長をじかに感じていたのではないだろうか。
直子にしてもそうだ。竜馬が勝手に、
「まったく変わっていない」
という思い込みを持っただけで、ひょっとして最初に思い出せなかったのは、その思いが強く残っていたから、思い出せなかったのかも知れない。自分のイメージと実はまったく変わっていたことでのっぺらぼうに見えてしまったりしたのだが、それを見えるようになったのは、竜馬の方が一方的に歩み寄ったからではないだろうか。
つまりは直子の顔をまったく変わっていないと解釈したのは、自分の中で小学生時代の直子を、今の直子の表情に記憶を改ざんしたからなのかも知れない。勝手な思い込みをしてしまったのを認めたくなくて、余計に直子のことを変わっていないと自分に言い聞かせたことが、余計に自分を苦しめる結果になったのだろう。
そのため、話しかけることも躊躇し、最初に話しかける勇気を持てなかったことで、二度と話しかけられるきっかけを失ったのではないだろうか。
そう思うと、直子の制服姿に違和感がなかったのも頷ける。最初から自分の記憶を介在しているのであれば、理屈も適ってくる。大前提として自分の記憶を間違っていないと考えたことがさらに自分を苦しめ、やはり話しかけることへの躊躇に繋がったとも考えられる。
竜馬の制服に対しての意識は、確かにその頃からあったはずだ。しかしこと直子のことが頭にあるので、
「意識がなかったのではないか?」
という思いが自分の中で右往左往してしまっていた。
中学の頃に何もなかったと思ったが、制服に興味を持った自分のことすら忘れてしまっていたことが、中学時代の自分を打ち消してしまっていたのかも知れない。制服に興味を持ったということが思春期を通り越した自分の証であり、その証こそが、
「本当は認めたくはない性癖なのだ」
と思うものであった。
中学時代と高校時代。どちらがよかったのかというと本人は微妙な気がしていたが、大学に入ってから思い出すのは高校時代だった。ほとんどを受験に明け暮れていたはずだったのに、なぜか思い出すのは悪い思い出ではない。気持ちの中で心地よい何かがあったのを覚えてはいるのだが。それが何だったのか、思い出せない。きっと自分で理解できていないためであろう。
大学時代というのは前にも書いたが、彼女がいた時期もあったが、長続きはしなかった。
最初に彼女がいたのは大学一年生のことだったが、あれは今から思えばあざとかったというべきではないだろうか。
あれは、その日の講義が終わって、街まで本を買いに行った時のことだった。
もう夕方近くになっていたので、街で夕飯を食べて帰りの電車に乗った時は、まだ通勤ラッシュの時間帯で、立っている人も多かった。
竜馬も吊革につかまるようにして乗っていたが、隣に女の子が立っているのを少し気にしていた。
彼女はずっと下を向いていて、雰囲気はよく分からなかったが、下を向いているのをいいことに、チラチラ彼女の方を見ていたのだ。あまりあからさまに見ると、まわりから白い目で見られるのが分かっていたからだが、チラチラ見る方が却って目立ってしまって、余計に白い目で見られるということを分かっていなかった。何かまわりの視線があることに気付きながら、途中でやめるのも気が引けたので、そのまま彼女を気にしていた。
電車が動き出してしばらくすると、彼女が次第に頭が下がってきているように思えた。それは本当は頭が下がってきているわけではなく、身体全体が下がってきているのであって、膝が次第に曲がってきているようだった。ゆっくり持っていた手すりがすでに腕を目いっぱいに伸ばして持つくらいまで下がってきたのを見た時、さすがにこれではまずいと竜馬は思った。
「大丈夫ですか?」
思わず竜馬は声を掛けた。
そして、声を掛けた瞬間、自分でも驚いた。高校時代に声を掛けられなかったはずの自分が、声を掛けたことに対してだった。大学生になったことで自分が変わることができたのか、それとも相手が知らない人だったことで、話しかけやすかったのか、すぐには分からなかったが、少しして考えると、
「やっぱり、知らない相手だったからなんだろうな」
と思った。
そう思う方が実は気が楽で、そうでなければ、直子に対しての思いが、今も続いているのではないかと思い、目の前にいる女性に対して失礼千万だと思ったからだ。
彼女と直子の間に何のゆかりもないのだから、失礼千万もないものだが、その時竜馬が感じた失礼千万という思いが、却って竜馬をその時、大胆にしたのかも知れない。
「ええ、ありがとうございます。ちょっとした立ち眩みなのかも知れません」
と言って、彼女は竜馬に寄り掛かってきた。
一瞬ドキッとしたが、それはただ体調が悪いからだっただけのことで、見知らぬ相手に寄り掛かるなどあるわけはないという理屈くらい理解できるほど、その時の竜馬は冷静だった。
なるべく身体に触れないように、彼女を抱えるようにしていたが、他の乗客は何も言わなかった。二人に気を遣ってくれていたと思うのは竜馬の勝手な思い込みで、きっと変に関わりたくないという誰もが思う群集心理の一つだったのだろう。
竜馬にはそれがありがたかった。下手に別の人から声でも掛けられていたら、きっと遠慮してしまっていたことだろう。何も言われないことで彼女の関心を一手に引き受けられるという思いは下心見え見えだったのに、その時の竜馬にはそんなことはなかった。あくまでも、
「正義のナイト」
という思いが強かったのである。
彼女は三つ目の駅で降りようとしていた。実は竜馬が降りる駅は、さらにそこから二つあるのだが、このまま一人で帰してはいけないと思い、一緒に電車を降りた。駅のベンチに座って、
「少しゆっくりしていけばいい」
と言って、彼女を介抱がてら、水を買ってきて与えたりした。
これくらいのことは普通の親切心からでも問題のないことだったが、さてこれから彼女を送っていこうかどうか迷った。
――家を知られたくないだろうから、送っていくのも難しいよな――
と思った。