意識の封印
直子が言当てであれば、どんな服を着ていてもすれ違った時に分からないということはないだろう。だが、衣装をコロコロと変えた時の直子を想像できないのは、きっと彼女の存在自体が、制服などの装飾を凌駕しているからなのかも知れない。
竜馬は直子のことを今でお好きだと思っているが、小学生の頃に感じた思いが、思春期の前後でどのように変わったのか、よく分からなかった。
――変わっているなどと思いたくない――
それが本音ではないだろうか。
郵便局でアルバイトをしている時、最初に見かけた直子は、制服を着ていた。制服を着た直子を想像したことがなかったということが、直子を見てすぐに、気付かなかった理由なのかも知れない。直子のことに気付かなかったなどというと、自分らしくもないと思えたが、制服を着ていることで分からなかったということを理解すると、それはそれで、自分らしいと言えるのではないだろうか。
郵便局でのアルバイト中、直子に話しかけるチャンスは何度もあった。なぜなら直子はいつも一人でいたからである。自分が話しかけようと思えばいつでも話しかけられる位置にいたのは間違いのないことで、いくら友人から、
「何だ、お前の彼女か?」
と言われたとしても、
「いやいや違う」
とハッキリ言えるだろう。
竜馬は自分のことを正直者だと思っている。それはいい意味でも悪い意味でもだが、直子に関しては、実際に彼女として自分のそばにいたことはない。だから普通に否定することができるのだが、もしそれが的を得ていたりすると、否定に躍起になるに違いない。
――ありもしないことを信じ込ませるわけにはいかない――
という思いがあり、それはすべて自分の罪になってしまうと思うからだ。
直子とは郵便局のアルバイトの期間中に、結局会話をすることはなかった。直子の方で竜馬の存在に気付いていたのかどうかも怪しいものだ。
――知らなかったのなら、その方がいい――
と感じたのは、もし、直子が知っていて、竜馬が話しかけてくれなかったことに対して、
「やっぱり、あの人はその程度の人なんだ」
と、意気地のないことを嘲笑されているという想像はしたくなかったからだ。
直子が他人を嘲笑しているところなど想像もできない。もし、そんな想像を自分が思い描くことができるとすれば、自分を軽蔑するレベルであった。
直子という女の子が竜馬にとってどんな存在なのか、竜馬は分かっていない。きっと自分の中での存在の大きさを考えてしまうからだろう。
――彼女の存在は、自分の中で何パーセントくらいに当たるんだろうか?
などと考えてしまうと、難しく感じてしまう。
何と言っても、自分の百パーセントに当たるすべてのキャパがどれくらいなのか、自分で理解できていないというのがその理由なのだが、その考えは竜馬に限ったことではなく、どの人にでも言えることではないだろうか。
全体が分かっていないのだから、部分的なものが全体のどれくらいだなどとどうやって測定できるというものなのか、自分の全体のキャパを分かっていないということと、それが分からないと、部分的なものを図り知ることもできないという二つのことを、どちらも喪失してしまっていると、分かるかも知れないと思えることも、五里霧中に入ってしまうことだろう。
ただ、そのことは思春期の間に一度は考えることのようだ。ただ、考えたとしても、結論が出るものであるはずもなく、そう思うと、考えるのをやめてしまい、考えていたという事実さえも自分の意識から抹消してしまおうとする意識が、無意識な形で実現されてしまうのではないだろうか。
結局竜馬は、高校を卒業するまで直子に会うことはなかった。大学は何とか地元の私立大学に入学できたが、その頃に考えていたのは、
「自分を変えたい」
という漠然とした意識で、実際にどこをどのように変えようというのか、構成ができていたわけではなかった。
漠然と考えているだけで、結論が出るものでもなく、そのおかげで、焦ることもなく、漠然と考えることができたというのは、ある意味よかったのかも知れない。
ただ、実際に自分の何かを変えないといけないという思いはずっと持っていて、最初にそのきっかけを与えてくれたのは、ひょっとすると、郵便局で直子と出会った時だったのではないかと思う竜馬だった。
大学に入ると友達も結構できた。ただ、長続きする友達ではないということは自分でも分かっていたし、きっと友達の方でも分かっていたことだろう。
「大学でできた友達というのは、結構一生付き合っていける相手だったりするんだよ」
と、高校の時に、担任の先生が言っていたが。
――一生付き合っていけるって、どんな関係なんだ?
と、自分の中で想像を絶するように思えたのは、決して大げさなことではなかったような気がする。
「大学に行くと分かるよ」
と言っていたが、何が分かるというのか、竜馬には疑問でしかなかった。
大学時代というと、
「皆、自分よりも優れている」
という思いが、今までよりも一番強かった時代だ。
就職した時も似たように感じたが、大学時代に受けた衝撃ほどではなかった。一度大学入学の時に感じていたからであろうか。
その思いの反動からの、
「他の人と同じでは嫌だ」
という思いも結構強く、この感覚は、
「比例するものなのだ」
ということを、改めて痛感させられた気がした。
大学入学当初は、友達ばかり作りまくった。高校の頃の先生の話が頭にあったからかも知れない。
――これだけたくさん友達を作れば、その中で一人くらいは、一生友達でいられる相手に巡り合っているかも知れない――
と思ったからだ
だが、相手も同じことを考えていたとすればどうだろう?
友達というのは、彼女であっても同じなのだろうが、自分だけの発信ではいけない。相手も同じ人間なのだが、人それぞれ考え方が違っているのは分かり切っていることだ。それは自分が直子に再度話しかけることができなかったことで、直子の存在に臆していたのではないかと思ったからであろう。
それを思うと、果たして相手が自分をどのように思ってくれるかが大きく影響してくるに違いない。
竜馬が考えていることは、結構相手に分かるようだ。
「お前は分かりやすいからな」
と、高校時代によく言われた。
それを言っていたやつを自分では友達だと思っていたが、卒業時、
「お前とはこれきりだな」
と、なぜか絶縁宣言された。
竜馬も別に彼にこだわる必要などなかったので、
「そっか、じゃあ、元気でな」
と言って、円満(?)に別れたのだった。
それがよかったのかどうなのか分からないが、竜馬は大学に入る際の、断捨離のようなものと考えていたのだった。
実は竜馬は、あまり自分から何かを捨てる方ではない。むしろ、モノを捨てるということには躊躇する方だった。
「後になって捨ててしまったことを後悔したくない」
という思いが強く、要するに整理整頓というものとは無縁な考えを持っていたと言えるだろう。
これは、子供の頃からのことで、生まれつきの性格だと思っていた。
子供の頃によく怒られら。