点と点を結ぶ線
そのことを教えてくれたのは、佐川だった。
佐川と最初に会った時、
――この人はどういう人なんだろう?
とまず感じた。
今まで知り合った人にも同じように感じたことはあったが、今回のように大学という環境で知り合ったという特別な感情があった。
大学というところは、それまでの高校時代と違って、自分の知らなかった世界を教えてくれた世界というだけではなく、いろいろな人が集まってきているという感覚でもある。その中には自分の想定を外れている人もたくさんいる。
――こんな考えもあるのか――
と驚かせされることもあれば、
――こんなこと考えたこともない――
と考えさせられる人もいた。
この場合は、二つのパターンがある。一つは、本当に自分の考えの延長線上にあって、もう一歩踏み込んで考えれば、自分もその域に達することができると思う。しかし、それがなかなかうまく行かないからこそ、踏み込んで考えることのできる人に尊敬の念を抱くことができるのだ。
「世の中は、尊敬できる人をどれだけ作るかということが大切なことでもあるんだよ」
と、大学進学の時、高校の先生から言われたことがあったが、その時にはよく分からなかった。
だが、実際に入学してみて、いろいろな人と出会ってからは、その時の言葉を思い出すことができる。
――大学に進学してよかった――
と感じることのできることであった。
それを里穂は一種の「結界」のようなものだと思い、結界をいかに超えられるかが大切なことだと思うようになった。
もう一つの考え方としては、少しネガティブな考え方なのだが、あくまでも自分の想定していなかったこと全般を、そういう言い方ができるものだと思うようになった。
大学というところは、最初から、
――自分の想像を超える人がいるところであり、中には理想とは正反対の人もいるかも知れない――
という思いを抱いていた。
高校時代までであれば、
「君子危うくに近寄らず」
という発想ではないが、
――近づかなければいいんだ――
と思っていた。
実際に、そんな人がいても、最初から目を背けていて、近づこうとは思わない。そう思っていると相手も同じことを感じるのか、敢えて近づいてくるようなマネなどなく、卒業までのあいだ、まったく接することなく終わってしまうことになるだろう。
そうなると、もう頭の中からその人の存在自体が抹殺されてしまい、過去が過去ではなくなってしまうことになる。だから、大学入学という時点での意識は、そんな人たちが自分の近くにいたということすら、覚えていないのである。
記憶というものにも感覚というものがあると里穂は思っている。つまり、
「意識していたことではないと感覚は生れない。だから、記憶にも残らない」
という考え方である。
大学に入ると、最初からそういう人の存在を意識して入学してきたので、まわりに自分と意見が明らかに違ったり、ヲタクのように、これからも関わることのないと思える人たちの存在を意識しようとしていた。
だからと言って、こちらから関わるということはない。無意識に距離を取ったり、相手が無意識であれ、近づいてくれば、思わず避けてしまうような態度を取るのは、条件反射としての自然現象のように思っていた。
大学というところは、会話の多いところである。
「会話しなければ、相手に気持ちは伝わらない」
ということを教えられたのも大学に入ってからだった。
高校時代までは、あまり人と話すこともなく、そもそも高校時代などは、入学してきてから少しの間は友達関係であっても、二年生になると、明らかに受験戦争という波をひしひしと感じるようになり、まわりに対して油断してはいけないという予防線を、自らで敷くようになってしまった。
それは里穂だけに限ったことではなく、まわりも自然とそうなっていった。友達になった相手も、自分と似たところがある人たちが引き寄せあうのだから、相手の気持ちもそれなりに分かり、行動パターンが似ているのも当たり前だ。こちらがぎこちなくなったタイミングは、相手も同じタイミングでぎこちなくなるタイミングである。いい意味でも悪い意味でも、
「歯車が噛み合った」
という意味では、いいタイミングだったのであろう。
だから、大学に入ってからも、作る友達というのは、自分に合う人ばかりにしようと思っていた。だが、話しかけてくる人のほとんどは、そんな雰囲気の人ではなく、よくよく見ると、
「たくさん、友達を作りたい」
と思っている人で、それ以外に他意のない人たちで、逆にさわやかだともいえる。
「来る者は拒まず」
の姿勢で行こうと、大学入学の時に考えていたので、そうやって話しかけてくれる人を友達として自分の中で分類していた。
そういう意味での友達は、高校時代までに比べると断然に増えた。だが、それを本当の友達と言えるのかどうかは、疑問が残った。
しかし、彼らのほとんどは、オープンなところが共通点で、
――私なら、ここまで相手に対して自分のことを話さない――
と思うことまで話してくれるようになった。
そんな人たちは、まず自分の経験から話をしてくれる。要するに話を聞いていて分かりやすいのだ。分かりやすいということは話をしていて、こちらからも意見を言える。それに対して、さらに意見が返ってくるのだ。それこそいわゆる、
「言葉のキャッチボール」
であり、意志の疎通を会話という形で実現していることになる。
相手の考えが分かるという意味でも、自分の知識の増幅という意味でも、いい意味にしかならない。そう思うと、今まで自分が避けてきた人たちも、本当に無碍に避けてしまっていいものなのかどうか、分からなくなってきた。
それはヲタクと呼ばれる人たちもそうである。
しかし、彼らの表情や雰囲気を見ていると、どうしても今まで培ってきた彼らへの印象が根深いものとなっているので、なかなかその牙城を崩すことは難しい。今まであれば、
――こんなくだらないことをいつまでも考えていてもしょうがない――
と思ったに違いない、。
しかし、大学に入ってから、一気に友達が増えたことで、今まで知らなかった世界が一気に開けた気がすることで、嫌いなものや、性に合わないと思っていることも、そう簡単に諦めてしまうというのは、早急な気がしたのだ。
大学に入ってから、クリエイトの専門学校のようなところなので、まわりは皆同じようなものを目指している人ばかりなので、ヲタクと言っても、少しは違うものだと思うようになっていた。
実際に、ヲタクと思えるような人とすれ違っても、それまで知っているヲタクたちとは若干であるが、顔つきが違っているような気がする。しかし、すぐに打ち解けられるような雰囲気にはどうしても思えず、自分から声を掛けるなど、考えられないことだと思っていた。
心理学的発想
ヲタクと呼ばれる人と最初に仲良くなったのが、実は佐川だった。佐川はヲタクと言っては失礼に当たるのだろうが、里穂の中で初対面での印象は、
――明らかにあっち側の人――
という印象だった。