点と点を結ぶ線
ただ、里穂にはそんなことは一切なかった。男の子を計算で順位をつけることはあっても、順位の高い子に近寄ってみようとは思っていなかった。順位をつけただけで満足してしまったということであろうか、それとも、自分がつけた順位に信憑性が感じられないことで、行動を無意識に抑制したのだろうか。自分でもよく分からなかった。
だが、計算ばかりだったある日、自分の計算ではかなり低い位置にいた男の子から声を掛けられたことがあった。普通の友達として話をしていると、結構楽しかったという思い出がある。今から思えば、結構いつも一緒にいた。
まわりからも、二人は好き合っているかのように言われていたが、それを里穂は気付いていたが、男の子の方は気付いていなかった。
里穂はそれでもいいと思っていたのに、それまで気付かなかった男の子が気付いてしまったことで、里穂に対して急に意識し始めてきた。里穂は、その態度に最初は、
――まるで女の子のように煮え切らない態度――
と思い、嫌悪していたが、次第にその様子がまるでペットのように思えてきたことで、見る目が変わってきた。
それが母性本能に近いものだったということは、思春期になって気付いたが、小学生の頃、その子とはそれ以上の進展がなかったことを、思春期になって、少しもったいなかったように思えたのは、それが初恋だったと感じたからであろうか。
「初恋なんて、どうせ実ることのない切ないものだよ」
と誰もがいうが、その意見には里穂も賛成だった。
だが、賛同しようとは思わないのは、他の人のような失恋という雰囲気ではないからだった。
他の人の話を聞くと、皆好きになった男の子に告白もせずに、ただ想っているだけで終わってしまったという話や、告白して付き合う感覚になったけど、実際の感覚が分かっていないために別れたというのも聞く。そもそも思春期前なので、性欲が生まれるはずもなく、ただ漠然と好きだというだけでは、付き合っていても何が面白いというのか、それであれば、友達と一緒にいる方がいいと思う人も多いことだろう。
だが、一緒にいるだけでほのぼのした気分になるという人もいる。ただ一緒にいるだけでお互いに落ち着くのであれば、それを付き合っていると言えるのかと考えてしまうと、実際に思春期になって気になる男の子が現れたとすれば、自分の中の気持ちはどちらに揺らぐであろうか。
身体が反応してしまうと、そちらに気持ちも靡くのではないだろうか。それまでの気持ちはすでに過去のものとなり、子供の頃の思い出として封印されてしまうと、徐々に好きになるということがどういうことなのかまで理解できるようになると、身体が先に反応し、気持ちが後からついてくるという状態になるだろう。
それが思春期であり、
「大人になるということ」
なのではないだろうか。
そう思ってしまうと、せっかくの初恋も、中途半端であり、自分で勝手に終わらせたくせに、それを認めたくないという思いから、
「淡く切ないもの」
として自分で封印してしまうのかも知れない。
だが、里穂の場合は、そんな感情はまったく関係がなかった。彼の親の仕事の関係で、引っ越すということになってしまったので、嫌でも離れなければならなくなったということである。
強制的に離されるのであれば、否応なしなので、考え方は決まっている。
「しょうがないこと」
として諦めてしまえば、それで済むのだ。
逆に、
――これ以上、好きになっていなくてよかった――
と思うほどで、別れてしまうと、傷つくことに対して自分が恐れていたということを後になって思い起こさせられるということも往々にしてあるだろう。
そういう意味での初恋は、淡さも切なさも何もなかった。そのせいもあってか、これを初恋だとは認めたくない自分がいるのも事実であるが、初恋というワードが出てくると、どうしても思い出すのは、小学生の頃のこの時だというのは、無理もないことだと言えるだろう。
里穂が、脚本を書く上で、学園ものだったり、恋愛ものが多いのは、
「その時の初恋を何とか描けないか」
という思いもあった。
ただ、最後の自然消滅をいかに、切なくしようと考えるかが難しいところであり、他の人と同じような結末に結び付けてしまうと、どうしてもこじんまりとまとまってしまい、脚本を書いたとしても、映像時間の所要時間に、まったく足りないという結果になってしまう。
かといって、小説のように感情をつけるわけにはいかない。映像作品の脚本は、場面やセリフの量によって、尺が決まってくる。逆に言えば、決まった尺内に入れようとすると、場面やセリフの数は。最初からほぼ決まっていると言ってもいいだろう。
里穂は、恋愛経験があまり多い方ではない。それでも恋愛ものを書こうと思ったのは、中学時代に読んだマンガや小説に大きな影響を受けたからだった。
最初はマンガから入ったのだが、その後で小説を読んでみると、その違いが明らかだった。マンガでは少々ドロドロした内容であっても、小説のように文字にした場合ほど、リアルなドロドロさが伝わってこない。逆にいえば、
「あまりドロドロさを求めない人には、小説は勧められない」
ということになるのではないだろうか。
小説というのは、読んでいる人の想像力をいかに発揮させるかというのが、文章力と重なり求められる。
「想像力がリアルさを凌駕する」
と里穂は思っている。
里穂は、佐川と知り合ってから、それまで恋愛だったり、学園ものだったりばかりを想い求めていた自分に、一種のショックを与えてくれた。それまではホラーやオカルト、ミステリーなどは、
「低速な分野のお話だ」
と思っていた。
特に、ヲタクと言われる種類の人たちは、いることも知っているし、近くにそれっぽい人もいる。特に映像クリエイトの学校に入ってくると、中には明らかにヲタクっぽいと思える人種もいて、思わず目を逸らしてしまう自分がいた。
――あの人たちとは、住む世界が違うんだわ――
と思っていたし、学校では決してそんな授業をするわけでもない。
自分が目指しているものだけを認めないというわけではないのに、偏見をハッキリと感じるというのは矛盾していることではあるが、それだけに自分の中で認めたくないと思っていることだった。
しかし考えてみれば、認めたくないと思って居るということは、少なくとも意識はしているということであり、染まりたくないという思いがあるということは、相手のことも認めているということである。
ただ、そこには善悪の問題があるわけではなく、ただ存在を認めるかどうかという初期段階でしかない。その段階を超えてから、善悪の問題を論じるのであって、逆に善悪の問題を論じるということは初期段階を乗り越えてきている証拠でもある。そもそも初期段階を乗り越えてこなければ、意識しているということにもならず、意識していることだけでも初期段階を乗り越えていると言えるのだろう。
だが、この初期段階は、もう一度考えさせられる時がやってくry。善悪の判断を超えて、その奥にある考えとして、もう一度存在について、今度は意義を含めた問題として考えることになる。