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点と点を結ぶ線

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「どこで?」
 ということになるのだろうと思うのだった。
 記憶の中にあったということは、きっと毎日見ているところではないかと感じた。そうでなければ、もっとすぐに思い出せるような気がして、話を聞いた瞬間にもすでに思い出していたのではないかとも感じた。
――このキャンパス内だわ――
 と思うと、相手も限られてくる。
 そして一番信憑性として高いのは、佐川以外にはいなかった。
 佐川であれば、学校内での話だったとしても別に違和感はない。しかもこういう話を誰よりも好きなのは佐川ではないか。
 今までにも何度も佐川の説を聞いて、
――なるほど――
 と思ったことか。
 佐川の話には説得力があり、話を聞いていて、彼の話に引き込まれることで、時間の感覚を忘れてしまう。しかも、聞いているだけではなく、彼には少なからずの「隙」があり、その間にこちらからの話を入れることができるのだった。
 それは高田にも同じことがいえた。その意味でもデジャブを感じたのかも知れない。話にだけデジャブを感じたわけではなく、その場の雰囲気すべてにデジャブを感じることで、話をしていたのが、キャンパス内であり、相手が佐川だと分かったのではないだろうか。
 佐川から話を聞いたという思いが頭に浮かんだにも関わらず、その時にどんな話をしたのか、曖昧だった。思い出そうとすると、さっきの高殿会話が邪魔になってしまい、思い出すことができなかった。
――まさか、まったく同じ話だったということ?
 話の内容だけではなく、あの時とシチュエーションも雰囲気も同じだったということであろうか。
 もしそういうことであれば、さらに高田には思うところがあった。
――高田さんの話を聞いていて、自分の中で佐川さんをダブらせて聞いていたのかも知れない――
 と感じた。
 さらにそこまで考えてくると、さっきの高田が、まるで佐川のドッペルゲンガーだったのではないかとさえ思えてきた。
――そういえば、今思い出すと、あの時の会話で見た高田さんの顔が思い出せないような気がする――
 いわゆる、
「真っ黒なのっぺらぼう」
 である。
 これも、まさにデジャブではないか。
 以前、高田にも感じた真っ黒いのっぺらぼう、あれが何だったのか、あれから意識することはなかったが、最初に感じた時、確かに、
――未来のどこかで、もう一度意識せざるおえない時がやってくる――
 と感じたはずだった。
 ただ、あの時に感じたものがあったとすれば、それは、
「リアルな恐怖」
 だった。
 ドッペルゲンガーに対しては、ハッキリとしない都市伝説としての、
「見たら死ぬ」
 というものがあるが、あくまでも都市伝説、どこまでの信憑性か分かったものではない。実際に見たのであればリアルなのだろうが、
「ドッペルゲンガーを見た」
 という意識で記憶は残っていなかった。
 それを想えば、これはドッペルゲンガーではなく、
「自分の近しい人が瓜二つの何者かと入れ替わっている」
 と言われるカプグラ症候群に値するものではないかと、今になって考えれば、そう思うのであった。
 里穂はそこまで考えてくると、
「カプグラ症候群というのは、その理屈は分かっていないが、ドッペルゲンガーのような超常現象と違って、神経疾患の一種に違いない」
 と言われていたことを想い出し、
――私がおかしくなってしまったおかしら?
 とも思ってしまう。
 だが、里穂はふとそこで思い出したことがあった。
「お前は思い込みが激しすぎるからな」
 と、以前、あれはいつだったか、確か中学生くらいの頃に言われたのを思い出した。
 それを言ったのは、確か担任の先生ではなかったか。先生はそれほど深い意味で言ったわけではなく、戒めくらいのつもりだったのだろう。里穂も実際にそれほど深くは考えていなかったし、この期に及んで思い出したことであった。
 思い込みの激しさがあったおかげで今の自分がある。
――おかげと言っていいのかしら?
 と感じるのは、自分の発想が他の人とかなり違っていて、
「変わっている」
 と言われるゆえんになっているからであったが、今ではそんな連中に対して、
「それが何か?」
 と澄ました顔で言えるくらいになっていると思っていた。
「他の人と同じでは嫌だ」
 という感覚を持っている。
 それだけ難しい話を考えたり、それができる相手と一緒に話したりできる今の自分を、決して嫌いだとは思わない。その他大勢で、何をするにしても、
「右にならえ」
 と言わんばかりの人たちと一緒にされるのが嫌だったのだ。
 今、里穂はデジャブの正体について考えていて、そこで結び付いてきたのが、ドッペルゲンガーとカプグラ症候群だ。デジャブの正体をそのどちらかに委ねようとしていると言ってもいいだろう。
 デジャブという現象も、科学的には証明されていない。学説としてはいろいろあるが、里穂はそれらとはまったく違った別の発想を持っている。
 もちろん、他の誰かが里穂が考えていることと同じ発想を持っているかも知れないが、少なくとも発表されていないと思っていた。
「デジャブというのは、自分が見たり聞いたり、実際に行ったりしたことがないのに、過去に見た、あるいは、行ったことがあると感じるところである」
 というものであった。
 里穂は考えた。
――本当は行ったこともなければ見たことのないものを見たと思うのは、本当に行っていないということなのだろう――
 とである。
 これを一つの仮定として考えると、まるでカプグラ症候群と同じように思う。瓜二つのものが存在していて、それを実際に見たと錯覚するからである。
 つまりは、自分が行ったことがあるはずはないが、似た光景を絵や写真で見たのを見て、曖昧な記憶の中から、まるで行ったことがあるような錯覚を覚えるというものである。
 それをどう考えるかというと、里穂はそれを、
「辻褄合わせ」
 だと考えたのだ。
 記憶が曖昧なことを自覚していることで、絵を見た時、
――行ったことがないのに、おかしな懐かしさを感じる――
 と感じたということに自分を納得させようという発想であろうか。
 曖昧な自分を納得させるには、いかに辻褄を合わせるかということであり、自分の中だけで辻褄を合わせようとするのであって、別に他人に迷惑を掛けるわけでもない。そう思うと、里穂はデジャブという現象に対して、
――記憶の辻褄合わせ――
 という一言で片づけられるものだと解釈していた。
 この際の記憶はあくまでも、実際に行ったことではないので、
「酷似のものだった」
 だから、ドッペルゲンガーのように、
「もう一人の自分」
 ではなく、
「ソックリな何者かが、自分の近しい人と入れ替わっている」
 というカプグラ症候群に近いもののように思えた。
 ということは、
――カプグラ症候群というのも、何かの辻褄合わせなのかも知れない――
 と思った。
 しかし、これはあくまでもデジャブを独自の考え方で納得している自分だけの意見であった。誰かに話しても、信憑性を疑われるか、そもそも話が難しすぎて理解されないかも知れない。
作品名:点と点を結ぶ線 作家名:森本晃次