「催眠」と「夢遊病」
大学では文学部に進んだ。しかし、文章を書くための勉強をする学科ではなく、歴史学科に進んだ。
文章を書くことが好きではあるが、それ以外では歴史が好きだった。今でこそ「歴女」などと言われる人たちが増えて、歴史を勉強する女子が多くなったが、つかさはそんな歴女とは自分は違うと思っていた。
つかさが書く小説にはこだわりがあった。
「自分が書くのは必ずフィクション。オリジナルにこだわる。しかし、本を読むなら歴史もので、ノンフィクションがいい」
と考えていたのだ。
他の人の小説を読まなくなって、しばらくの間、本を読むこともなくなっていた。たまに何かの本を読みたいと思うことがあったが、以前のように小説を読むことは嫌だった。
――じゃあ、何ならいいのかしら?
と考えた時、好きな学問である歴史の本がいいと思った。
歴史の本で、しかも時代小説ではなく、小説の中でもノンフィクションである歴史小説を読むことが多かった。知っている歴史上の人物の伝記的な話であったり、時代を焦点にした話であったり。
最近では、歴史ものの本でも面白いものもある。一人の人の人生を通じてだったり、一つの戦を中心に、武将たちの考え方だったりを見るわけではない。歴史上の一つの出来事を、掘り起こすのではなく、そこから広げていく発想である。広げていくことが、掘り起こすことにもつながることを、つかさは感じた。つまりは、点から線にして、結び付いた線から逆に点を見るという考え方だ。
そこには、関わった人々の考え方や決断のようなものも見えてくる。その人たちの一つ一つの考え方や決断が、歴史を作っているのだ。
「そんなことは分かっている」
と言われるかも知れないが、それをリアルに感じるには、こういう考え方でなければ難しいということを、つかさは知った気がした。
つかさは最初、そんな歴史で学んだ考え方を、自分の小説に生かせるかも知れないと思ったが、実際にやってみると、なかなか難しい。やはり歴史上の人物の考え方は、つかさにとってはノンフィクションであり、架空の考え方ではない。つまりはオリジナルではないということだ。
つかさは、あくまでも自分が作ることに対してはオリジナルにこだわる。そういう意味で、例外も存在した。
「ノンフィクションであっても、オリジナルは存在する」
という考え方である。
それはどういう場合をいうのかというと、
「自分で経験したことは、自分で培ったことであって、あくまでもオリジナルである」
という考え方だ。
確かに過去の事実なので、フィクションではない。しかし経験したのは自分であって、自分が経験したことはオリジナルだと思えた。つかさは自分が書く小説の根源として、今までに書いたものを思い起こしてみると、ストーリーの根幹には、必ず自分が経験したことが影響しているように思えてならない。
「小説といえども、自分が納得のいくことでなければ書けないもの」
とも思っていた。
だから、ノンフィクションは納得がいかないので、書く気にはならない。
もちろん、自分が書けないジャンルを否定するわけではない。ただそれを書いてしまうと自分ではなくなってしまうと思っているだけであった。
歴史小説を読むようになったのは、
「考え方や決断が、自分の今までの経験を呼び起こしてくれるかも知れない」
と感じたからだ。
だが、思っていたよりも接点は少なかった。少ないというよりも薄いと言った方がいいかも知れない。そもそも時代背景も違えば、社会構成がまったく違うので、参考程度にもならないのかも知れない。
それでもつかさは歴史小説が好きだった。それは能と能の間に狂言が挟まっているような一拍置いた感覚が、次のオリジナリティに新鮮さを与えるものに思えたのだった。
つかさは小説を書いているのも、歴史小説を読むのも同じ趣味のレベルに置いている。人から、
「趣味は何ですか?」
と聞かれると、
「小説を書くことです」
とまずは小説を書いていることを先に言う
しかし、最初に小説を書いていることを言ってしまうと、歴史小説を読んだり、歴史に造詣が深いということを趣味として一緒に口に出したくなくなっている。
それはなぜなのかというと、
「頭の中では両方とも趣味としてのレベルとしては同じだと思っているが、最初に口に出してしまった後で、もう一つの趣味を口にしたくないのは、どこか同じレベルだと他人には思われたくないからだ」
ということであった。
自分で認めていることと、人からどう見られるかということで違うというのは、それだけつかさにとってすべてにおいて自分が優先するということを示しているのではないだろうか。
「自分ファースト」
とでもいえばいいのか、いや、そんな単純な言葉で表せるものではない。
人との間に結界を作って、まわりから見れば、
「交わることのない平行線がそこにはある」
と思わせたいのだ。
平行線であれば、結界が目の前にあってもそれに気付くことはない。つかさは人と関わりたくないというよりも、
「他人と同じでは嫌だ」
と基本的に思っている。
その思いの正体は、自分で作った結界を知られたくないため、まわりに交わることのない平行線に見せることだった。
つかさはそれが他人を欺いているとは思っていない。
「自分が考えられる程度のことなので、きっと他の人もとっくにそんなことを感じているはずだ」
と感じていた。
つかさには、まわりの人間に対して卑下した部分があった。自分が考えられることくらいは誰もが考えられることだというものであるが、そのくせ、他人との差別化を自分の中で測っている。
実は、どうして自分を卑下するのかというと、他人との差別化を他の人に気付かれたくないという気持ちへのカモフラージュだったのだ。
それは言い訳ではないとつかさは思っている。伏線を敷いているというイメージの方が強いかも知れない。
考え方の中に、つかさは二重構造を持っていると思っている。伏線というのも二重構造の間にあるもので、それをつかさは結界のように感じているのではないだろうか。
ただ、つかさの中での結界という考え方は、決して破ることのできないものという考えではなく、
「目の前にあっても見えない。誰にも気づかれないもの」
という発想であった。
それは、「石ころ」の発想と似ているかも知れない。
「石ころというのは、そこにあって何ら不思議のないもの。超自然にそこに存在しているので、あって当たり前、誰にも意識されずに気配を消すことができるもの。それが結界である。
石ころの発想は、子供の頃からあった。むしろ子供の頃は絶えず頭の中にあったと言ってもいいかも知れない。
その場に存在しているのに、誰にも意識されないのは、自らで気配を消しているのではないか。そしてそれは石ころが意志を持っていて、自らで行っていることではないか。そんな発想をつかさは持っていたのだ。
つかさが歴史小説を読んでいる時、そして、小説を書いている時、それぞれに結界を自らで作っている。
作品名:「催眠」と「夢遊病」 作家名:森本晃次