「催眠」と「夢遊病」
家でクーラーに当たって、テレビを見ているのは却って辛かった。どちらかというと貧乏性のつかさは、何の予定がなくても、休みの日であっても、必ずどこかに出かけていた。そんな彼女が表にも出たくない状態なので、それはそれでストレスがたまることになったのだ。
小説を読めばいいのだろうが、ちょうど飽和状態だった。そんな時、
「書いてみようかな?」
と思い立ち、心の中で、
「私に書けるはずなんかないのに」
という思いを感じながら、恐る恐る書いてみた。
やはり、そう簡単にいくものではなく、実際に書いてみると、少し書いただけで、すぐに詰まってしまう。要するに何を書いていいのか、分からないからだった。
メルヘンばかりを読んでいたので、メルヘンを書いてみたいという思いはあった。また書けるとすれば、メルヘンしかないという思いもあったが、その両方を満たす結論は見つかるわけもなかった。
書けるようになるというのは、気持ちの矛盾となるということを分かっているだけに、簡単ではないという思いも手伝って、頭の中で小説執筆を否定している自分がいたのだ。
小説を書く時、最初は原稿用紙に書こうと思い、かしこまっていたが、思ったよりも頭に何も浮かんでこなかったので、書き方を変えてみることにした。今ではパソコンを使って書くようになったが、最初に書けるようになった時は、レポート用紙に書いていた。
横書きで書いていると、普段から鳴れているせいか、スムーズに書けた。頭も回転していき、書きながら次の文章も浮かんでくるようになると、一気に書けるようになっていた。
小説を書いている時間というのは、完全に自分のペースに嵌っている。というよりも隔絶した世界を形成できているようで、時間の感覚がマヒしていた。
書いているとまだ十五分くらいしか経っていないように思っていても、気が付けば一時間も経っていた。これは小説を読む時、自分の時間に入り込んでしまうのと似ている。そう感じたことで、小説をこれからも書き続けることができるのだと思ったのだ。
高校受験の際は、小説から離れていた。離れていた期間は半年くらいだったと思う。だが、高校に無事に合格することができて、精神的に余裕が出てくると、また小説を書いてみたいと思うようになった。そう思うまでは、小説を書いていない時期が半年くらいという妥当な感覚であったが、また書きたいと思うようになって、前に書いていた時期を思い出すと、一年以上離れているような気がして仕方がなかった。
書き方の要領も忘れてしまった。
元々、確固たる信念のある書き方だったわけではないので、忘れてしまったのも無理もないこと。少しでも自覚できるような書き方を持っていれば、きっと書いているうちに徐々に思い出してくるはずだった。だが、その思いは思ったよりもなく、いつまで経っても昔の勘が戻ってくることはなかった。
だが、それはそれでいい気もする。下手に過去の書き方を覚えていると、ブランクがあっただけに、曖昧になった書き方が今の感情に合っていたのかどうかも分かったものでもない。
それを思うと、新たに新鮮な気持ちで向かうというのも悪くはない。新たな気持ちで向かっている中で、過去の感覚がよみがえってきたとしても、それはプラスでしかないと思うからだ。
新たな気持ちではあるが、最初からパソコンに向かって書くことができた。身体は覚えているものだということであろうか。
ただ、書くジャンルはメルヘンチックなものではなくなっていた。高校生になると今度は、サスペンスやミステリー系に興味を抱いた。
――どうしてメルヘンチックなものなんか書こうなんて思ったのかしら?
と感じたほどで、自分でもその時の気持ちを顧みることはできなかった。
サスペンス、ミステリー系の小説を書いてみると、さすがにサスペンス的なものは難しいと思えた。どちらかというと社会派と呼ばれるようなサスペンスは、高校生の女の子では、想像だけで描くことのできないものだった。
広義な意味でのミステリーであれば、書けそうな気がした。確かに好きな小説はサスペンス系よりもミステリーだった。学生を主題にしたミステリー作家もいて、親近感を沸かせながら読んだものだった。
つかさは、高校時代にミステリーを何本か書いてみたが、実際に書いてみると、納得のいく作品は一つもなかった。人に見せると、
「面白いじゃない」
と言ってくれる人もいたが、自分で納得がいかないだけに、その言葉に信憑性を感じることができなかった。
――試行錯誤を繰り返して書いているつもりなんだけどな――
と思っていたが、試行錯誤はマイナス感覚のネガティブなものでしかなかった。
本当は堂々巡りを繰り返しているだけなのかも知れないのに、それを試行錯誤と勘違いしていたのだろう。
そのことに気付いたのは、高校二年生になってからだった。
ミステリーばかりを好んで読んでいたが、そのうちにミステリーに飽きてきたわけではないが、ふと別ジャンルを開拓するつもりで読んだ作家の本に大いなる興味をそそられた。
――今まで、こんな小説読んだことないわ――
と思えるもので、内容は奇妙な物語というべきお話であった。
ジャンルとしては、
「奇妙な味」
というらしいが、専門的にはポピュラーなのだろうが、普通の読者にはあまり馴染みのないものだった。
以前、テレビドラマにあった奇妙な物語のような話を、再放送で見たことがあった。放送されていた時代はそのほとんどは昭和の頃であり、そのあとスペシャルなので、それぞれの季節に製作されていた。
スペシャルもいいのだが、昭和の時代に帯番組として放送された内容が、つかさには参考になった。時代背景は今と違って昭和という四半世紀以上も前の時代なので、ピンとくるものではないが、なぜか画面を見ていると、今に繋がるものを感じることができた。
それでいて、昭和の時代がよき時代であったかのような演出を感じさせる。もちろん、未来になってそんな思いで見る人がいるなど、想像もつかずに製作されたものに違いないが、未来から過去を見るのと、過去から未来を見るのとの違いも感じさせられた。
いくら過去にあった話だと言っても、自分が生まれていたわけでもない。そういう意味では過去も未来も知らないという意味では同じなのだ。
つかさが読んだ奇妙な味をジャンルとした作家の作品も、時代背景は昭和のものだった。読み込む中には、
「見たことがあるようなお話だわ」
と思うようなものがあり、それは再放送で見た昭和の時代の奇妙な物語のドラマだった。
一度見たという記憶はあったが、ほとんど忘れていた内容であり、しかも、思い出したのは最後のクライマックスを迎えたあたりでのことだったので、途中はほとんど想像も適当なものだった。
だが、この適当な想像がよかったりもする。そのことを思い起こさせたのが、この時に感じた、
「一度見たことがある」
という思いだった。
前に見たという記憶は一気によみがえってきた。その時に出ていた俳優がどんな人だったのか、その人がどのようにラストシーンを演じたのかを思い起こすうちに、作品の全貌を映像としてイメージするようになっていた。
作品名:「催眠」と「夢遊病」 作家名:森本晃次