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「催眠」と「夢遊病」

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 メルヘンチックな話を書こうと思ったのは、中学時代に読んだ本がきっかけだった。
 元々小説を読むということもそれまではなかったのだが、どうして読んでみたいという気になったのかというと、風邪をひいて病院に行った時、待合室に置いてあった本がそれだったのだ。
 マンガもあったが、マンガを読む習慣もなかったので、いまさら続き物のマンガを読んでもしょうがないという思いがあったからで、他にこれと言って理由があったわけではない。
 風邪をひいての病院だったので、頭はボーっとしていた。そんな状態でメルヘンチックな小説を読むと、自分もメルヘンの世界に入り込んでしまったような錯覚を覚えた。さらに室内には、クラシックの優しい音楽が流れていて、癒しに感じられる雰囲気がさらに入り込んだ世界を頭の中でリアルにイメージさせたのかも知れない。
 だが、熱のあった状態で、リアルというのもおかしなもの。本当は文字を読んでいるだけで頭が痛くなってきていたはずなのにやめようとしなかったのは、いつの間にか小説の世界の中に、自分を誘っていたからなのかも知れない。
 その時、ほとんど読めなかった。待合室にいる時間は結構長く、一時間近く待たされたはずだった。普段であれば一時間も待たなければいけなければ、待ちくたびれて、本当に痺れを切らせるくらいだったに違いないが、実際に本を読んでいると、時間的には十五分程度のちょうどいいくらいの時間だったような気がした。
 ただ、十五分というと、本を読むにはあまりにも短すぎる。そう思うと中途半端な時間だったという思いも拭い去れない。確かにそれほど進んでいたわけではないが、最初の方を読んだだけで、引き込まれていく自分を感じていた。
 その日は最初の三十ページほどしか読めなかったので、続きが気になってしまい、風邪が治ってから本屋にその小説を探しに行った。幸い有名な小説家の作品だったので、本屋に陳列されていて購入することができた。
 二五〇ページほどの小説だったので、少し薄めの文庫本というくらいであろうか。さすがにその日には全部読むことはできなかったが、翌日には完読できた。読んだ感想としては、
「あんなラストだったんだ」
 という思いであった。
 小説というのは、ある程度まで読み進んでいくと、ラストの情景が頭に浮かんでくるものだ。実際に四分の三くらいまで読んだところで、ラストのイメージが頭に浮かんできた。そのイメージとはまったく違ったラストだったことで、自分が素人だということが原因なのか、それとも作家からまんまと嵌められたと思うべきなのか、考えてみた。
 嵌められたと思う方が、心地よく感じられた。
「これが小説を読む醍醐味だ」
 と思えるからだ。
 確かに最後まで読むと、嵌められたという思いとは別に、すがすがしい気持ちになった。
 自分は小説を読むのに時間が掛かると思っていたが、実際には結構早かったのではないだろうか。その理由の一つとして、小説を読み進むうちに、いつの間にかセリフの部分だけを主に拾い読みしているようだ。そのことに気付いたのは、だいぶ後になってからだったが、
――どうしてこんなことに気付かなかったのだろう?
 と思うと、
――それだけ小説に嵌って読んでいるからではないか――
 と、答える自分もいた。
 その思いは半分当たっていて、半分外れている。
 拾い読みがすぐに結論を求めたくなる自分の性格から来るものだということに、拾い読みに気付いたのと同時くらいに分かった気がする。つまりは、一つのことが分かると、芋づる式にそれに付随することも分かってくるということなのだ。
 つかさが小説を読んでいた時期は、最初に読み始めてから一年間くらいだっただろうか?
 中学受験が佳境に入ってくると、小説を読むどころではなくなっていた。最初は気分転換になるから読むのもいいだろうと思っていたが、実際にはそういうわけにもいかなかった。
 つかさには、集中すると他のことが目に入らないというところがあり、逆に集中するためには、まわりから自分を遮断させるという必要があった。
 ただ、小説を読んでいる時には、気が付けば嵌っているので、集中しているという意識を感じることはない。それがつかさを小説を読むことに嵌らせた直接的な原因なのではないかと思うのだった。
 小説を読みたくなる時期というのがあるようだ。
 ずっと読みたいと思うことはなく、半年ほど読みたいという時期を通り過ぎると、それまでの読みたいという意識がウソのように、本を開くのが嫌になる時期に突入した。
 飽きたというわけではないのだろう。しいて言えば、
「想像力が欠落しているようだ」
 と感じるからだろう。
 想像力というのは、言わずと知れば、ラストのイメージである。
 想像力の欠落というのは、
「想像できない」
 というわけではなく、
「想像していた通りにラストを思い描くことができてしまう」
 というものだった。
 そういう意味では想像力に興味が持てなくなったという意味で、想像できてしまうことが小説への興味を削ぐことになるというのも皮肉なものである。
 それは、
「想像力の飽和状態」
 であって、飽きたという意識と同じなのかも知れない。
 だが、つかさはそれを「飽きた」と言いたくない気持ちになるのは、飽和状態という言葉と、飽きたという認識とは切り離して考えたいと思っているからではないだろうか。
 しばらくは小説を読みたくないという気持ちにはなるが、またすぐに読むようになる。読んでいない時期を、
「いつも数か月くらいかかった」
 と思っているが、実際には一か月ほどだった。
 それだけ読んでいない時期が、
「自分の中でポッカリと開いた時間」
 だと思っているからなのかも知れない。
 周期的に読んだり読まなかったりするようになるというのは、結構早い段階で気付いていたような気がする。ただ、それは予感があったというわけではなく、
「ふと気づいたら、そう思っていた」
 と感じたからだった。
 本を読み漁っている頃には、自分が小説を書きたくなるなど、考えていなかったような気がする。
 意識の中で、
「小説を読みたいと思う時期が周期的になっている」
 と思うようになってからだったが、最初の頃はそう感じていても、実際には自分で納得のいくものではなかった。
 本を読み始めたのは、中学に入ってすぐくらいのものだったのだが、書こうと思うようになったのは、中学二年生の夏休み明けくらいだった。
 その年の夏は異常気象のため、特に暑かった。十月になっても、三十度を超える毎日だったほど、その年の夏はうだるような暑さが続いていた。
 体力的にはもちろんのこと、精神的にも参っていた。暑さも佳境に入ってくると、耳鳴りが聞こえてくるようで、やかましいはずのセミの声が、かなり遠くから聞こえてくるかのような錯覚に陥るほどだった。
 そんな毎日、喉が渇くのも日常茶飯事、表に出るのもたまらない状態だった。
作品名:「催眠」と「夢遊病」 作家名:森本晃次