魔法のエッセンス
人に合わせて会話をしていても、心地よい時がある。相手に余裕が感じられる時だ。余裕が感じられないと、どれほど見苦しいものかを、松田は、最近知った気がした。
特に女性同士の会話などで、
「私はあなたに対して気を遣っているんだ」
ということを思わせるのは、第三者が見ていても分かるくらいのものが、どれほど情けないか。分かっていないのは、本人たちだけであろう。
松田は、優子との会話で、
――付き合っても最後にはフラれてしまうという話をしていたが、理由は話が噛み合わないところにあるのかも知れない――
と、思うようになった。
最初は噛み合わなくても、愛嬌で何とかなっても、次第に一緒にいるだけで苦痛に感じられることもあるだろう。そう思うと、優子は、損な性格なのかも知れないと感じるのだった。
優子と話をしていると、どこか上の空に見えることがある。特に二人きりで話をしている時に感じる思いが強い。なぜ上の空になるのか、それは、優子が、見た目よりも若く見えること、そして、最後には男性にフラれてしまうことに影響していることを、その時まだ、松田は知る由もなかったのだ。
真美は、父親が再婚の意志を強く固めていることを、何となく分かっていた。相手がどこの誰かまでは分からなかった。隠そうとすればするほどボロが出てしまう松田は、娘から見れば、隠そうなど無駄なことであった。
確かに再婚してもいいとは話していたが、相手がどんな人なのかが気にならないわけではない。
真美にとって、母親が本当にほしかった時期にいなかったので、母親と言われてもピンと来ない。だから、父親が再婚する人がいても、自分にとっては他人であり、表向きに義理の母親として見ればいいだけであった。
父親も娘のことは、あまり心配していない。勝則が彼氏であることも気にならないし、本当ならもっと心配してもいいのだろうが、なぜか、真美に対しては気になっていなかったのだ。
自由奔放に育ったと言えば、それまでだが、真美は学生時代から、好きなことをするのが一番だと思っていた。
本当は一つのことに熱中できるような趣味を持てるのが一番なのだが、それがなかなか見つからない。いろいろなことに手を出して、中途半端に終わってしまっていることが多かった。
芸術的なことには、いろいろ手を出してみた。一番最初に諦めたのが音楽だった。
クラシックや、ジャズなどを聴くのは好きだったが、ロックやポップスは、どうも好きにはなれなかった。クラシック、ジャズをある程度聞き慣れてしまうと、ロック系の音楽が、馴染めないものとなってしまっていた。
それにロックバンドのパフォーマンスや、衣装を見ていると、
「とても私にはできない」
としか思えなかった。
クラシックやジャズは、好きだからといって趣味でできるようなものではないと思っている。
「やるからには極めないといけない」
という思いが強く、自分に極められるわけなどない。そう思うと、音楽を趣味に持つのは難しかった。
次にやってみようと思ったのは絵画だった。
実際に美術部に入部し、コンクールで入選するくらいの実力があったので、趣味としては、自分が望んだ最高の形を手に入れることができたことが嬉しかった。
学校も美術には力を入れてくれていて、真美の実力は評価してくれていた。環境としては申し分なく、しばらくは、美術に打ち込む時間ができていた。
しかし、次第に自分の中で重苦しさを感じるようになった。
最初はどこから来るものなのかも分からないくらい、その頃も真美は、何も心配事はないはずだった。
学校の中で期待されていることも、別に他人事のように思えていたはずなのに、ある日を境に、急に重たいものを背負っていることに気が付いてしまったのだ。
一度気付いてしまうと、気付かなかった時期を、
「本当は気付いていたのに、自分をごまかそうとしていた自分がいたのかも知れない」
と思うようになった。
ごまかそうとするには、何かごまかさなければいけないものが存在し、どのようにごまかそうかと頭が回転するはずのものだ。それなのに、頭が回転するどころか意識がないのだ。
意識のない中で、何を目標にしていたというのだろう。その頃から真美は、
「目標は達成するためのものではなく、持続して頑張るためにあるものだ。達成は夢のようなものだ」
と、自分に言い聞かせてきた。
達成してしまった時の自分を何度となく想像する。妄想と言ってもいいかも知れない。どんないいことが待っているのか、顔がほくそ笑むほどだ。
ただ、それとは逆に達成してしまった自分が、どんな顔をしているのか、分からないものだ。逆光を浴びたかのようにシルエットが掛かっていて、表情は口元が歪んだように見えるだけで、他はまったく分からない。
――達成することって、悪いことなんだろうか?
と思えてくるほどで、目標に到達してしまった自分のそこから先が、何をしていいのか、何をするべきなのか一切分からなくなってくるのだった。
それでも、趣味の域を超えていたのかも知れないと思ったが、趣味の域を超えたと思った瞬間から、
「あまり長く続けるものでもないかな?」
と思うようになっていた。趣味はあくまでも嗜みの世界。域を超えてしまっては、楽しめるものも楽しめなくなる。
趣味とは楽しむものだと、誰かから聞いたことがあった。ひょっとしたら、母親からだったかも知れない。性格のほとんどは、父親からの遺伝だと思っているが、制御を掛ける考え方は、母親の影響が強かった。
結局、真美はこれといった確固とした趣味を持ったわけではなく、適当位楽しむ趣味をいくつか持つことを選んだ。進学の際、先生から、
「美大に進めばいいぞ。推薦状を書いてあげよう」
と、言われたが、
「いいえ、普通に短大に進みます」
と言って、家の近くの短大に進学する道を選んだのだった。
先生は、
「どうしてなんだ? せっかくの才能を伸ばせばいいじゃないか」
と言ってくれたが、その言葉の意味がハッキリと分からない。
「才能を伸ばして、どうするんですか?」
先生は言葉に詰まった。まさか、そんな返事が返ってくるなど思ってもみなかったからだろう。
「だって、お前。絵画を始めたのは、目標があって始めたんだろう? 目標に向かってまっすぐに進んでいるんだから、その路線に乗るのが一番自然だと思うんだが、先生の言っていることに間違いはあるかい?」
と、言われたが、
「間違ってはいませんけど、根本的なところで、考えが違います」
「どういうことだい?」
「私は、目標を持って、絵画を始めたわけではないんです。ただ、何か打ち込める趣味が見つかればいいと思っていただけなんですよ」
「でも、せっかく才能があるのが分かったんだから、それを伸ばそうとするのが、自然なんじゃないかい?」
「そうですね。でも、私の目指すものはそこにはなかった。と、それだけのことではないでしょうか?」
先生は目を白黒させ、真美のような考え方の人は初めてだったのだろう。きっと、
――こんな人もいるんだ――
と、単純に思ったに違いない。
「お前がそういうなら、それでもいいが、もったいないな」