魔法のエッセンス
そのことを、松田は知らなかった。やはり、感じるのは、女性特有の勘が必要なのかも知れない。人を惹きつける何かを感じてはいたが、そこに妖艶さは感じられない。実際に一緒にいて、淫らな想像ができる相手ではない。そんな相手であれば、最初から付き合いたいなどと思わないだろう。
だからといって、松田はセックスが嫌いなわけではない。付き合い始めれば、もちろん、身体を求め合うのは当たり前であるし、優子ともそうなるだろうと思っている。だが、付き合い始める前の段階で、想像力を膨らませることはなかったのだ。
告白するまでは、それほど難しいことではなかった。何度かお店を訪れ、
「今度、ご一緒に食事でもいかがです?」
と、声を掛けるのも、それほど度胸を決めるほとではなかった。
「ええ、いいですよ」
優子も快く、返事を返してくれた。待っていたかのような声の抑揚に、松田は小躍りしたいほどであった。
有頂天になった松田は、娘の様子を気にするようになっていた。娘からは、
「お父さん、再婚したい人がいたら、別に再婚してもいいよ」
と、言われていたが、実際には気になるものだった。
本当は、娘の立場からであれば、
「ここでお父さんに再婚しておいてもらえば、今度自分が結婚すると言った時、反対されずに済む。恩を売っておくのも悪くないわ」
という打算的なものもあっただろう。
二十二歳といえば、それくらいの年ごろである。すぐに結婚するしないは別にして、結婚を考える年齢としては、決して早すぎるわけではないからである。
松田と優子、そして、真美と優子。それぞれに立場は違って、まったく知らない関係であるこのトライアングルは、本当に偶然の賜物なのだろうか? 均衡が取れている今の関係を崩すとどうなってしまうのか、この時は誰も気づくはずもなかったのだ。
最初に崩れるのはもちろん、松田と優子、二人は出会った瞬間から、付き合うことを意識していたかのようだった。それは最初に一緒に食事をした時に、松田が言いたかったことだったからだ。
「ええ、私も実は、松田さんとは、こうやって、お食事にでもお誘いいただけただけでも嬉しいなって思っていたんですよ」
「それはいつからですか?」
「今から思えば、最初からだったかも知れませんね。こんなことって今までにはなかったし、食事に誘ってほしいなんて思える相手、今までに現れたことありませんでしたからね」
と言っていた。
「ウソでも嬉しいですよ」
本当はウソだなんて思ってもいないのに、思わず口から出てしまったが、
「ウソなんかじゃありませんよ」
優子もムキになって答えた。
「ふふふ」
お互いに目を見て安心したかのように、思わず笑いがこみ上げてきた。女性と一緒にいてこれほど楽しかったことなどあっただろうか? 別れた女房とも、付き合い始めた頃にはなかったように思う。
若かった頃は、いろいろデートするにも場所はあった。
ショッピングに付き合ったりするのはもちろんのこと、遊園地やゲームセンターなどで無邪気に遊んだこともあった。また博物館や美術館で、しっとりと、それでいてまったりとした時間を過ごしたこともあった。
今なら、博物館や美術館であろうか?
若い頃なら、それだけだと我慢できなかったかも知れないが。今であれば、しっとりと、そして、まったりとしたい時間をありがたいと思うのかも知れない。
「それにしても、この年でのデートなんて」
有頂天にはなっているが、どこに行けばいいのか分からないところは、悩みの種でもあったのだ。
待ち合わせに使う喫茶店は決まっていた。二人は、それぞれ常連にしている喫茶店はあったが、敢えてそこを使わず、最初に入った、今までに二人が入ったことのない喫茶店を待ち合わせ場所にした。それは、個人の隠れ家ではない、「二人の隠れ家」を持ちたいという松田の意見だったが、優子もまったくの同意見だったのだ。
ただ、隠れ家というほど、奥まったところにあるわけではなく、駅前にある喫茶店だった。最近では珍しい純喫茶の雰囲気のある店は、朝などは、モーニングセットを出してくれる。年配の二人には懐かしさの残るこういう店が、一番似合っていた。
優子のお気に入りは、クリームソーダで、松田はレモンスカッシュだった。まるで昭和を思わせるこの店の客は、やはり年配が多いようだった。
「私ね。実は、松田さんと知り合う前に、何人かの人とお付き合いしたことがあったんですけど、いつも最後には私がフラれてしまっていたんです」
「それは、どうしてなんですか?」
本人が、意を決して話してくれたことに対して、率直な疑問だとはいえ、いきなり聞き返すのは失礼だったかも知れない。自分で理由が分かるくらいなら、同じ失敗を何度も繰り返さないのではないだろうか。
「それがよく分からないんです」
確かにそうとしか答えは返ってこないだろう。
「すみません。分かりきったことを訊ねてしまったようですね」
「いえ、いいんですよ。確かに理由が分かるくらいなら、他の人とすでにお付き合いしていますからね」
そう言って、はにかんで見せた。今の返事は、今度は松田に対して失礼だったかも知れない。付き合い始めるかも知れない相手に、
「他の人とすでに付き合っていたかも知れない」
などというのは、失礼な言葉に違いないからだ。
だが、優子のはにかんだ表情は、少々失礼なことを言われても気にならないほどの心地よさを感じさせる。
――天然なんだ――
と思えば、痘痕もエクボで、許せる気分になってくるのだった。
優子を見ていると、彼女の魅力は年齢の割に、あどけなさがあり、無邪気なところがあることだ。
だが、逆に言うと、無邪気であどけなさは、相手に失礼になる言動を引き出してしまう。彼女が最後にフラれてしまう理由はそこにあるのだろう。実年齢よりも若く見えることが、彼女にとって、よくもあり、悪くもある。どちらに影響してくるかは、相手にもよるだろうし、その時の環境にもよるだろう。松田に対しては、どっちに転ぶのだろう?
優子と松田の会話は、どこか噛み合っていなかった。ぎこちなさがあったが、それも最初だけだと思われた。お互いに大人なのだから、すぐに慣れてくるというものだ。それよりも、お互いに緊張しているからなのかも知れない。それだけ恋愛に対しては、ウブなところがあるのではないだろうか。
確かに、お互いに失礼な言葉を掛けるのは、緊張からであろう。まるで、見合いの席のような雰囲気を感じているのかも知れない。二人とも、見合いの経験はないようだが、松田は結婚相談所からの紹介を受け、数人とお付き合いをしたことがあるので、そんなに緊張するはずはないと思っていたが、やはり、実際に知り合うのと、紹介とでは、まったく出会いの性質が違っているのだろう。
結婚相談所で紹介された女性たちは、結婚を焦っている雰囲気を相手に感じさせないようにしようとしているのだが、意識しすぎているのか、明らかにみえみえの雰囲気を感じさせる。
気持ちに余裕を感じさせない会話には、失礼だが、見苦しさすら感じさせられ、それでも、相手に合わせて会話をしている自分が次第に情けなくなってくる。