魔法のエッセンス
――どこかで、成長とともに、意識も止まってしまっているのかも知れないわ――
という感覚は、躁鬱症の中で、躁と鬱が入れ替わる時に感じるものと似ていた。優子は時々、自分が躁鬱症ではないかと思うことがあるが、それは、躁の時と鬱の時とで、時間の流れ方や時間の長さの感覚が違っていて、躁と躁の間にある鬱の時間がまるでなく、ポッカリと穴が空いてしまっているように思えるのだ。
躁状態の時と鬱状態の時では、同じ人間が感じるのに、まったく違った世界が展開されているのではないだろうか。
年を取らない人がいるとすれば、躁鬱症の人にも言わるかも知れないと思っていた。ただ、躁鬱症の人は、年を取らない期間と、一気に年を取る期間とが、躁鬱症の切れ目に訪れ、結局最後は辻褄が合うようになるのではないかと思っている。
優子の場合は、そうではなく、本当に年を取っていないのだ。
そのおかげで松田と出会った。
松田は気付いていないが、松田も優子と知り合ってから、年を取っていない。若返っているくらいに見えるのは、それだけ、優子と一緒にいると、気持ちまで若くなるからだ。若く見えるにはそれなりに理由があり、精神的なものが大きいのかも知れない。
ただ、精神的に若返ったのか、それとも、思い出すことが若い頃のことばかりだからなのか分からないが、確かに若い頃のことが、まるで昨日のことのように思い出されて仕方がない。途中の生活がマンネリ化していて、どこを切っても同じことしか思い出さないような気がするくらいだった。
卒業してからの方が波乱万丈の人生だったはずなのに、思い出すことは学生時代のことばかり、しかも、楽しかったことよりもほろ苦い思い出の方を思い出すというのも、おかしな気分がしてくるのだった。
松田の学生時代には、ほろ苦い失恋があった。
好きになった女の子には、好きな人がいて、それが松田の親友だったのだ。親友とは、高校時代からの付き合いで、平凡な毎日を過ごしている松田と違い、親友は体育会系で、サッカーをやっていた。
サッカーばかりに熱中しているので、彼に憧れる女の子はいても、
「今はサッカー一筋」
と、ばかりに、恋愛は、自分の中で禁じていた。
そんな彼には、たくさんの女の子が群がったが、松田が好きになった女の子も、その中の一人だった。
松田は、彼女のことが好きだったが、その他大勢の中の一人になることは嫌だった。
「どうせなら、他の女の子に負けないでほしい」
という思いと、自分のものだけになってほしいと言う思いのギャップがストレスとして残ってしまう。
しかし、逆に彼女には、他の人と同じような群がり方はしてほしくないという思いもあり、群がっている時の彼女は嫌いだという思いが、ギャップによるストレスを緩和していたのだ。
そんなジレンマの中、自分が他の人と同じでは嫌だと思うようになると、今度は急に、好きだった彼女に対して冷めた気分になってきた。
「俺だけを好きになってくれる女の子じゃないと嫌だ」
という思いである。
その中には、他の人と争いたくないという思いがあった。
「争ったら、結局は自分が負けてしまう」
という思いがあったのも事実だろう。
松田の心の中には、消極的な部分が積極的な部分を覆い隠す傾向があったようだ。
ただ、それを人に知られるのは嫌だという思いよりも、自分自身納得できないことが嫌だという思いの方が強く、なるべく消極的に考えないようにしようと思うと、
「他の人と同じでは嫌だ」
という気持ちが自分の中の第一の考えだと思うようになった。
松田は、頭の中で似たような考えをいくつも持っている。そしてその中で自分を納得させる思いが一番表に出てくるのだ。消極的な思いが出てくる時は、いろいろ考えても、どうしても積極的になれない時である。
松田は、彼女に対しての気持ちが冷めていったことで、本当は、彼女から精神的に逃げたことで、痛手を最小限に緩和したつもりだった。だが、実際には、心の中では、
「ほろ苦い失恋」
として残った。
強引に自然消滅させてしまうと、彼女に対して、自分が嫌いになったという思いが残るからだ。松田自身の中では、彼女を好きなまま終わりたいという思いが強くあり、失恋ではないのも、失恋したという思い出を作り上げれば、そこには、ほろ苦さが湧いてくる。それが松田の中での、
「思い出の改ざん」
であった。
これをやってしまうと、他の思い出もあてにならなくなってしまう。松田には、意識としての改ざんはない。思い出のすべてが事実だと思っている。すべてが真実だと思っているが、それでも思い出が色褪せたりしないのは、
「それが事実であっても、改ざんであっても、正直な気持ちの表れであれば、それは本人にとっての真実でしかないからだ」
もし、松田の中で改ざんが意識的に行われていたら、悩んでいたかも知れない。悩みながら、何かの答えを求めて、考えていけば、最後に辿り着く答えが、
「自分にとっての真実」
ということになるはずである。
「正直が真実を生む」
これが松田の信念でもあった。
優子は、松田のそんなところを好きになった。松田は少し変わっているが、優子も自分が他の人と同じでは嫌だという気持ちを持っていた。自分とは少し違う意味で他の人と同じでは嫌だという部分を持っているが、共鳴できるところは多々あったのだ。
松田は、そんな優子に、自分の信念を見たのかも知れない。
「彼女こそ、自分にとっての真実」
そして何よりも、余裕が感じられ、安心感を与えられるのが、一番の嬉しいところであった。
「余裕があるから、安心感があるんだ」
と思った。そして、その中にこそ、優子の真実を感じた。そして、優子の真実は、そのまま松田の真実でもある。一足飛びにそこまで考えたわけでもなかったが、自分の中の真実が刺激されたのも事実だった。
「この人には、他の人にはないものがあり、それがこの人の信念なんだ」
と、感じた。
それを意識させたのが、年齢の割に若く見えるところであったが、なぜ若く見えるのかまでは、すぐには分からなかった。ただ、分かったとしても、それは、優子の中で感じている若く見える理由とは、きっと違っているのではないかと思えた。
それはそれでいい。なぜなら、同じ考えであれば、共鳴はしても、本人が見るのと、まわりが見るのとでは違って当たり前だという考えではなくなるからだ。
松田にとって、若く見えることで、今まで隠してきた男としての部分が、よみがえってきた。どうして隠してきたのかというと、
「もう、女性を愛することはないだろう」
という思いが、松田の中にあったからだ。
人を愛することがないというのは、本当に寂しいことだ。それを思い起させたのが、優子の存在でもあったのだ。
自分の中で勝手に終止符を打ってしまうのが、松田の悪いくせであった。それも、結構早い段階で終止符を打つ。それだけ、自分の中で自信を持つことができないものが鬱積している証拠なのかも知れない。そう思うと、悲しくなってくるのだった。
優子は、あまり諦めの早い方ではなさそうだ。そこが、松田とは違うところだが、
「あきらめてしまうのは、いつでもできる」