魔法のエッセンス
優子が最近、他の男の子が気になっていることを、二人は知らない。しかも相手は勝則で、真美と深い関係にある相手であることを、いまだ知らないでいるのだ。優子が勝則を気にし始めた時は、真美と別れてすぐで、
――失恋してすぐなんだわ――
と、同情的な目にはなっても、相手が誰かなど、分かるはずもなかった。
真美と勝則は密かに付き合っていた。どちらかというと、真美の方が秘密主義だったかも知れない。
――男性恐怖症の自分が男性と付き合っているなんて、誰にも知られたくない――
という思いと、他の人に知られるのを、単純に煩わしいと思っている勝則との考えは、理由はどうあれ、一致していた。
優子も真美が誰とも付き合っていないと思ったから、真美と関係を持った。もっとも、男性恐怖症の女性が男性と付き合っているなど、ありえないと思うのが自然であろう。
優子を見る勝則の目を思い出していた。ストーカーというものに遭ったことがないので分からないが、今から思えば、それほど怖いものでも、気持ち悪いものでもなかった。それは最初から感じていたことで、本当なら騒ぎ立てるほどのことはなかったはずなのだ。
――どうして、あの時、あんなにムキになってしまったんだろう?
優子は後悔というよりも、自分の精神状態を何とか思い出そうとしていた。なかなか思い出せるはずもない。時間を追うごとに、新たに気持ちの変化が訪れるのだ。一度変化が訪れると、蓄積されていく思いは、山のように積みあがる。どこかに避けてしまえばいいのだろうが、一旦避けてしまうと、今度はそこから必要なものを引きずり出すことが難しくなる。だから、蓄積しているものを整理することができないのだ。
「整理整頓は、捨てることから始まるんだよ」
と言われたが、その捨てることができない。
「では、避ければいいんだ」
と、言われても、また引っ張り出す自信がないのだから、避けることも難しい。
だから、物忘れが激しくなる。物忘れではなく、整理できないと言えばいいのだろうが、ピンポイントで覚えていることもある。ピンポイントから思い出すこともあるので、何とかなっているのだろうが、本当に思い出せなくなったらどうなるか、想像もつかないでいた。
勝則という青年を見ていると、暗さの奥に、人に言えない何かを隠しているように思えた。それは優子にしか分からない気がしたのは思い上がりかも知れない。
ただ、それは、整理整頓できない気持ちが影響しているように思う。一直線で実直な気持ちが表に出ている彼の気持ちが分かることから、奥にあるものを探ることができるのだ。表に出ている気持ちを他の人も見ている、だが、彼の本質を見ているわけではないだろう。見えない膜で隠された彼の気持ちを、表に向かって叫んでいる声が聞こえるのは、自分だけだと思うからだった。
「姉ちゃん」
確かに彼はそう言っている……ように聞こえる。そして、耳にハッキリとその声が聞こえてくるのだ。
その声がどこから発せられるものかを落ち着いて聞けば分かるはずなのに、優子には、余裕がなかった。それほど、神経を研ぎ澄ませないと聞こえないほどの小さな声なのだ。
実はその声は、優子の心の中から聞こえてくるものであった。他の誰にも聞こえるはずのない声、そして、心の中だからこそ、消え入るように小さな声になっているのだ。そのことを分かるには、気持ちに余裕を持たなければいけないのだが、心に余裕を持つことができる優子ではない限り、その声も聞こえない。
弟が本当は死産であったことは、両親と親戚しか知らない。なぜそのことを優子に隠さなければいけなかったのか、それを知られるのがまわりには一番怖かった。
「死産であったからと言って、別に姉には関係のないことではないのか?」
優子の家族の中で、親戚が集まって話をした時、出てきた話だった。至極当然の話で、誰もが思うことだったが、誰が発言したのか、その発言は、長い沈黙の後だった。
その場では、何度か沈黙があった。そのたびに新しい議題が展開され、いろいろな話題があがった。子供が死産だっただけで、どうしてそんなに仰々しい会談をしなければいけないのか、その場に居合わせた人皆が感じたことだろう。
だが、しないではいられないのだ。これから優子が背負っていく一生に関わることだったからだ。
結局、優子には大切なことを何も語られることもなく、今まで来たのだが、
「このことは、墓場まで持っていくことにしよう」
と、会談を始めた張本人が一言言って、誰もが、喉を鳴らしながら、意を決したように頷くことで、その場はお開きになったのだ。
そんなことはまったく知らずに今まで生きてきた優子には、いつしか弟の声が聞こえるようになっていた。錯覚なのだろうが、錯覚と言うだけで片づけられない思いが心の奥にあった。
男性恐怖症ではないが、なぜか女性を求めてしまう。それは、自分が男の感情を持ってしまったからだと感じていたが、その理由について、考えてみようとは思わなかった。考えてみるのが怖いからで、見つかった答えが自分に与える影響の代償を考えると、とても考えることができなかったのだ。
自分の中に、男性がいるということを考えたことがなかったわけではない。ただ、同性を好きになる理由になるほど、ハッキリしたものでもなかった。ましてや、弟の存在を考えるなど、思ってもみなかった。
会ったこともなければ、見たこともない。ましてや話をしたこともない。そんな相手が自分の中にいるなど、考えられるはずもないのだ。
優子は勝則と話をしてみたいと思った。偶然を装うのは、あまりにもわざとらしいが、その時に勝則がどう感じるかだ。
優子は意を決して、偶然を装ってみた。
「あら、ごめんなさい」
わざとらしく、人ごみに中で、彼にぶつかってみた。
「あ、いえ、こちらこそ」
そう言って、彼は優子を見ると、視線を切った。
――おや?
この反応は、まるでまったく知らない人を相手にしているかのようである。ストーカー行為までした相手を忘れてしまったというのだろうか?
「もし、お時間がありましたら、お茶でもいたしませんか?」
完全に逆ナンパだが、自分がここまで大胆になれるなど、優子はビックリしていた。最初は視線を切って、ぎこちなさがあった勝則だが、優子が誘い掛けると、
「いいですよ」
と、言って、今度は優子を見つめていた。その表情には笑顔が漲っていて、一点の曇りのない瞳に、優子は吸い込まれそうな気がしていた。
――これではどちらが誘い掛けたか分かったもんじゃないわね――
思わず溜息を洩らしたいくらいだったが、要するに、
「案ずるよりも生むが易し」
であった。
勝則は、優子の顔を見ていると、満面の笑みが生まれていた。まるで生まれたばかりの子供が母親を見つめるような表情に、最初感じた母性本能を思い出していた。
――錯覚ではなかったんだわ――
という思いと、
――以前にも、こんな表情を感じたことがあるわ――
という思いだった。
その顔にはストーカーと化した彼の表情はどこにもなかった。ただストーカーの時の表情も、
――どこかで感じたことのある顔だわ――