魔法のエッセンス
親戚のところで世話になったのは、弟だけではなかった。優子も自分が生まれた時、親戚のところで世話になってことをかすかにだが覚えている。田舎町だったが、自分が生まれたところという印象が強く、家に戻ってくると、今度はどこか違う場所に連れて行かれたような気がして。怖かったものだ。
弟も同じようにそこで一年くらいはいただろうか? 自分の時は、確か半年もいなかったように思う。
「病弱で、身体も小さな子だからね」
と、まわりの人も言っていたが、まさしくその通りだろう。
ということは、弟は一歳にも満たない間に死んでしまったことになる。そう思うと、弟もそうだが、両親も可哀そうであった。
弟を見たことがないだけに、弟がいたことを時々忘れてしまう。ずっと一人っ子だというイメージのまま育ってきたので、なかなか兄弟と言われてもピンと来ないし、男の子のイメージも湧いてこないのだった。
男性恐怖症になったことはなかったが、真美を見ていて、
――彼女、男性恐怖症になりかかっているわ――
と、軽い症状ではあるが、男性恐怖症になっていることに気が付いた。
実は、優子が女性を愛したのは、今までに二度目だった。真美には、何回もあるように思えたが、実際には、そんなにあるわけではない。優子も最初、同じように自分を女性同士の愛情に引きずり込んだ女性がいたことで、女性への道を見つけてしまったのだ。
元々、男性を好きになるはずだったのに、その時は、自分が好きになった相手に付き合っている女性がいて、彼女が優子に、
「彼を好きにならないで」
と、直訴に来たのが、そもそもの始まりだった。
彼女がどうして、優子に食指を伸ばしたのか分からない。その頃の優子は、若く見えるようなこともなく、普通の女の子だった。どちらかというと、ボーイッシュなところがあるくらいで、ひょっとすると、ボーイッシュなところが気に入ったのかも知れない。
だが、身を委ねている時は、完全に優子は「女」だった。最初から震えが止まらずに、触れられた場所からは、放射状にゆっくりと快感が伝わっていく。
全身に伝わるまで、一分くらいは掛かったのではないだろうか。彼女は焦ることはしなかった。一度触れると、次に触れるまでには、少し間があったのだ。
それでも、優子は焦れた気分になることはなかった。目は虚ろになり、彼女を見つめていたが、意識はハッキリとしていた。ただ、その間の時間が、あまりにもゆっくりと過ぎていくだけであった。
一日があっという間に過ぎていたと思っていた頃のことであった。
一日はあっという間に過ぎてしまうのに、一週間、一か月となると、なかなか過ぎてくれない。一週間前を思い出そうとするならば、まるで一年前くらいの感覚でしか思い出すことができない。
「きっと、それは思い出そうとするからよ」
と、彼女に時間の感覚の話をすると、そういう風に返ってきた。
「時間に委ねていれば、時間はあっという間に過ぎてくれる。でも、思い出そうとすると、時間を逆行することになるので、なかなか思い出すまでには時間が掛かる。それは、いい思い出でも嫌な思い出でも同じこと、だけど、その過程はまったく違っているものなのよ」
と、説明してくれた。
一回だけでは理解できないような話でも、彼女がしてくれると、すぐに理解できた。これが最初に男のことで、
「彼を好きにならないで」
と、訴えに来た女性であろうか。確かに潔さがあった。優子もその迫力に押されてしまったが、明らかに最初にあったしとやかさは消えていた。
優子も、もう彼のことなど、どうでもよくなった。
優子の中に、女性を惹きつける何かがあるのか、それとも、その時に彼女の潔さを優子も共有しているのか、優子には、その時の彼女の考え方が浸透しているようだった。
その人としばらく一緒にいたが、すぐに別れた。お互いに目指すものが違っていることに気付いたからだ、
「優子は、男性を好きになることはないかも知れないわね」
それが、彼女の最後の一言だった。それが、彼女と優子との違いだったのかも知れない。
優子の人生は、それからあっという間だったような気がする。毎日は、なかなか過ぎてくれないのに、長い期間で考えればあっという間だったのだ。それは最初に彼女が話してくれたことを思い出してみると、毎日に一生懸命になって、先を見ようとしない。いつも何かを思い出そうとしていたから、一日が長く感じられたのだ。
「物忘れが激しいと感じるようになったのは、いつからだっただろう?」
優子は、自分が物忘れの激しいと思っている。それは最初からではなく、ある時、急に気付いたのだが、実際に物忘れが激しくなった本当の時期は曖昧で、ハッキリとしないのである。
「毎日、一つずつ、何かを忘れて行っているような気がする」
一つだけとは限らないが、確実に一つは忘れて行くという感覚に襲われた時、しばらくして、物忘れが激しくなったことに気付いた。本当なら、逆なのかも知れないが、昨日のことすら、まったく思い出せないのだ。思い出せない理由に、時系列がハッキリとしないからだというのが一番大きな理由だと気が付いたのは、またしばらくしてからだった。
その時になって、初めて時系列の話をしてくれた彼女のことを思い出した。その時、彼女が自分から離れて行った違いの中に、時系列を曖昧にしか扱えない優子のことが、最初から分かっていたのかも知れないとも感じた。
買い被りかも知れないが、彼女にはそれだけのオーラがあった。時間の感覚の話をしたのも、ただの偶然ではないのかも知れない。
不思議なことだが、彼女のことだけはハッキリと思い出せる。そして、彼女のことを思い出した時、優子の中の時系列は繋がりを見せ、しばらくの間は、物忘れの激しさがなくなっている。
優子は、真美の中に彼女を見たと思っていたが、実際にはそうではなく、見たのは、あの時の自分だった。
すると、真美を抱いている時の自分が、あの時の彼女になっているということか?
考えてみれば、彼女自身、本当は誰なのかと、曖昧な気持ちになっているようなことがあった。
――あの時の彼女も、私の中に、自分自身を見ていたのかも知れない――
だから、いずれは別れが訪れる。優子も真美との別れを、必然のこととして受け入れていたではないだろうか。
優子は、勝則を見て、初めて男性以外の男性を感じた気がした。
男性というと、ガサツで、自分のことしか考えない人が多いと思い込んでいた。確かにストーカー行為は自分のことしか考えていない行為ではあるが、裏を返せば、それだけ相手を想っているということである。その手段が姑息で卑怯ではあるが、表現の違いだけで、彼はそれほど悪い人間ではないのではないかと思えてきた。
そう思うと、弟のイメージが頭を巡る。思い出す弟は、学生服に身を包んだ高校生の男の子だった。なぜ高校生なのか分からないが、弟のことを想像したのが、優子が短大時代だったことがあって、優子の中で、弟を思う時間は、短大時代で止まっていたのだ。
短大時代の友達の弟が、優子のことを好きになった。その男の子は、優子を女性として見ているというよりも、お姉さんとして見ていたのだ。