魔法のエッセンス
と、松田は自分に言い聞かせる。
女房の性格は分かっているつもりでいたが、自分に対してだけ作られた性格だなどと思いもしなかった。人によって性格を変えることができるとしても、必ず、どこかで歪みが生まれることは、松田にも分かっていることだった。
離婚にしてもそうだったが、考えてみれば、最初から最後まで、女房のやり方に振り回された。女房が離婚を考えていることを知った時には、すでに取り返しのつかないところまで来ていたのだ。
それが女性の性格だと言えばそれまでだが、態度に出した時には、すでにすべてを決意した後で、何を言っても、覆るものではなかった。女性の側からすれば、揺らぐ可能性を残して、別れを切り出すことは、覆る可能性を少なからずに残していることになり、後ろ向きになってしまうことを意味している。すでに決心したことで、再度苦しめられるのは、勘弁してほしいという気持ちなのだろう。
しかし、男からすれば、それは卑怯ではないかと思えてくる。いや、男だからというよりも、
「何があっても、二人は一緒」
という思いで結婚したのであれば、この仕打ちは、完全に裏切り行為だ。
だが、相手からすれば、
「その原因を作ったのは、あなたでしょう?」
と言いたいのだろうが、
「じゃあ、どうして、ここに至るまでに相談してくれなかったんだ?」
と、当然のごとく、言いたい、
「だって、あなたに相談できる雰囲気がなかったんですもの。もう少しでも、私の方を見てくれたら、私だって、相談したわよ」
というだろう。
そうなれば、言い返すことは、難しくなる。なぜなら、ここから先は、すべての言葉が後手に回ってしまって、言い訳にしか聞こえなくなるからである。
言い訳は、アリ地獄の様相を呈してくる。言い訳を一度でもしてしまえば、相手はいくらでも責める言葉を持っていることだろう。こちらは、言い訳を言い訳ではないようにしようと、さらに言葉を進めると、それは言い訳の積み重ねになってしまう。
「ウソを隠すには、九十九の本当の中に隠せばいい」
と言われるが、それをウソの中に隠そうとすると、何が本当で何がウソなのか、自分でも分からなくなってしまうからではないだろうか。
夫婦間の言い訳は、許される言い訳と、許されない言い訳に明確に別れているような気がする。ひょっとすると、夫婦間のみならず、男女の関係では、すべてが言い訳の中に成立しているのかも知れない。それが許されるものなのか、許されないものなのかの違いで、表れる結果がハッキリとしてくる。
「世の中はしょせん、男と女」
そんなフレーズを聞いたことがあるが、それが、恋人同士、夫婦関係、親子関係、それぞれで立場が違えば、言い訳の度合いも違う。
「一体、俺はどれだけの言い訳をしてきたというのだろう?」
まるで言い訳で固めてきた人生を歩んでいるようで、思わず苦笑いをしてしまった。松田くらいの年齢になると、苦笑いも味があるようにまわりから見られるようだ。
松田が、簡単に自己紹介と、娘のことを話した後、優子が意外なことを話し始めた。
「私は、実は以前から、真美ちゃんのことを知っていたんですよ」
別に隠すつもりはなかったが、何を言い出すのかと思っていたが、どうやら、優子の話そうとしていることは、真美の思っていることと違っているようだ。
優子は続ける。
「私は、以前、喫茶店でウエイトレスをしていたんですけど、その時に、真美ちゃんを見かけているんですよ」
真美にとっては意外だった。だが、優子の口にした喫茶店の名前は確かの高校時代、友達と何度か行ったことのある喫茶店だった。その場所は、真美にとって、忘れかけていた場所だったが、楽しい思い出など、ほとんど持っていない真美にとって、その喫茶店で、友達と過ごすひと時は、楽しいと思える数少ない機会であった。
その頃の自分を知ってくれているのは、真美にとっては嬉しかった。ただ、楽しいと思っている中にも、どこか訳ありな表情をしていたはずである。優子にそれが分かっているかどうか定かではないが、中途半端に落ち込んでいる時よりも、いわくありげな表情をどのように見ていたのか、少し気になるところでもあった。
それよりも、それならどうして、花屋さんで知り合った時に、そのことを話してくれなかったのだろう?
――どうして、このタイミングなのかしら?
と、疑問は膨らむばかりだ。
――まさか、私とお父さんが親子だということを、分かっていたのかしら?
もし、分かっていたのだとすれば、それが最初からなのか、それとも、途中からなのか、どちらなのであろう?
優子の一言によって、いろいろなことが想像できる。真美の頭はフル回転していた。
松田と真美が親子であることが分かっていたとすれば、松田と知り合ったこと、そして、真美と知り合ったこと、どちらも偶然では片づけられない。どちらも作為があったとは考えにくいが、どちらかに作為があったとすれば、それは父と知り合ったことなのか、それとも、娘と知り合ったことなのだろうか?
「お父さんと、優子さんはどうやって知り合ったの?」
これに対しては、先ほど父が話してくれたのだが、真美は、同じことを優子にも聞きたかった。
「どうやって知り合ったかというのは、さっきお父さんが話した通りで、私のお店にお父さんが来られて、それから話をするようになって……」
表情だけを見ていれば、その言葉に偽りはなく、深読みするだけの余地もなさそうだ。父親が、結婚相談所に登録していることは知っていたし、再婚を考えていたことも分かっていたが、娘から見ていて、さほどパッとしない中年サラリーマンの悲哀を引きずっているような父を好きになるような雰囲気には見えなかったからだ。
「では、優子さんは、父のどこに惹かれたんですか?」
初対面ではないとはいえ、ズバズバ聞いている自分が、真美は不思議だった。心の奥では、聞くことの怖さを感じているのに、まるで喧嘩腰の挑戦状を叩きつけているような自分に対して、
――一体どうしちゃったんだろう?
と思うのだった。
優子を尊敬しかかっていたはずなのに、この挑戦的な感覚は、誰かに対して嫉妬しているように思えた。
――誰に嫉妬などするの?
父親を取られてしまう娘の気持ちという構図であれば分からなくはないが、そんな雰囲気では決してない。それでは、せっかく友達になった真美との関係が、義理とはいえ、母娘になってしまうことへの抵抗があるのだろうか?
母娘になったとしても、義理である。却って他の人に義理の母親になられるよりも優子になってもらう方がよっぽどいいではないか。
優子の表情は、普段と変わらずニコニコしている。それは気持ちに余裕を感じさせる笑顔だった。
――私はこんなに気を揉んでいるのに――
優子の余裕の笑顔が、恨めしかった。笑顔にもいろいろ種類があり、いくつかは理解しているつもりだが、優子の笑顔には、屈託がなく、含みもない。これ以上、ありがたくも最高の笑顔があろうというものか。
――ということは、この笑顔を独占できないこと。つまり、人と分かち合わなければならないことに不満があるのかしら?