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魔法のエッセンス

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 それは、逆の意味でのホッとした気持ちである。本当に好きになりそうで怖い自分を、娘だからという理由で諦められたら、よかったと思うだろう。
 真美が自分の娘ではなく、新しく友達になった女の子だったとすれば、二人きりで話になると、きっとドキドキして何も言えなくなってしまうかも知れない。話しているうちに性格が似ていることに気付くだろうし、気付けば、何を話しても、すべて相手に気持ちを見抜かれそうな気分になり、何も言えなくなってしまう。
 攻めの姿勢に入ることができないと、守りに入った自分が、小さく見えてくる。どこから見ても全体を見ることができ、逃げ場のない箱庭の中で、もがいているかのようだ。
 将棋の布陣は、意味があって決まっている。最初に並べた形、それが一番隙のない形で、一手指すごとに、少しずつ隙が広がってくるのだという。隙を作りながら進んでいくのだから、攻めの姿勢がなければ、必ず防御できなくなる。
「攻めは最大の防御」
 という言葉も頷けるというものだ。
 真美が生まれた時、それまで自分が子供が嫌いだと思っていた松田は、これほど子供が好きになるなど思ってもみなかった。まるで別人になったかのようで、誰よりもそれは元女房が一番感じていたようだ。
 子供ができたことを喜んでくれるのだから、本当は喜ばしいことなのに、あまりの変わりように、少し怖くなったのも事実だったようだ。
 元女房は、普段は毅然としているが、急に気が弱くなることがあった。それが女性らしいところでもあり、可愛いところでもあったが、結婚してしまうと、その性格はマイナス面でしか影響していないようだった。
 怖くなると、まわりの雰囲気を一変させる。重苦しい空気が漂い始め、暗雲を立ち込めらせる。俄かに曇った空から、今にも雨が落ちてきそうな時、アスファルトから、雨の日特有の匂いが発せられる。その匂いが元女房にはあった。
「曇天に雨が似合う女」
 という湿った暗いイメージしか感じさせない時が時々あったのだ。
 真美には、そんなところはまったくなかった。それどころか、立ち込めてきた暗雲を、睨みつけて跳ね返そうとでもするところがあった。
「性格的には父親に似た」
 と言われるゆえんであり、両親が離婚して、どちらに着くかと言われて、
「お父さん」
 と即決できるゆえんであった。
 きっと、母親と二人では、息苦しいだけの生活でしかないだろう。もちろん、それは母親も同じことで、想像もつかない家庭になってしまいそうな気がした。
 両親が離婚したのは、真美が中学の頃、まだ一年生の頃だった。まだまだ子供の真美は、離婚の理由よりも、自分の好き嫌いで、どっちが悪いのか決めていた。そうなると、悪いのは母親だとしか思えなかった。
 母親への未練は、別になかったのに、中学二年生の時、
「もし、お父さんが誰か他の人と結婚したら、嫌かい?」
 と、聞かれたことがあった。今思えば、父としては、なるべく子供の気を遣って、言葉を選んでいたに違いないが、却って、子供には不信感を抱かせるに至った。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「あ、いや、新しいお母さんができることになるんだけど、真美は嫌なのかな? と思ってね」
「何言ってるのよ。訳分からない。変なこと言わないで」
 と、取りつく島も与えなかった。
 それ以来、父親が、その話をすることはなかったが、しばらく父の背中を見るのが辛かった。どういういきさつだったのかも知れずに、ただ拒否しただけだったので、
「話くらい、聞いてあげればよかった」
 と、反省もしたが、あとの祭りだった。
 ただ、話を聞いたとしても、その場で喧嘩にならないという保証はない。下手をすると、しばらく口も利けないほどに、険悪なムードになってしまったかも知れないと思うと、とりあえずは、それでよかったと思うしかなかった。
 中学二年生から三年生に掛けての頃は、かなり精神的に不安定で、意味もなく、イライラしてしまっている時期もあった。運悪くそんな時期だったらいけないと、父もかなり気を遣ってくれていたのは、本当は分かっていたのだ。
 分かっていても、精神的にはどうにもならない。毎日を同じような気持ちで過ごすことなど到底できない時期。家にいるだけならいいが、学校にいけば、まわり皆が精神的に不安定さを抱えている人ばかりなのだ。自分だけでどうにかなるものでもないのが、この時期であった。学校の先生は、さぞかし、やりにくかったに違いない。
「あの時、もし父に再婚の話をされたら、絶対に断っていたかも知れないな」
 そして、父親は二度と再婚を口にしないようにしないといけないと思ったに違いない。高校生になって絵画を始めてからの真美は、少し人間的にも精神的に余裕ができていた。中学時代に思っていた苛立ちはなくなり、父親に対しても、再婚したければ、別に反対することはしないと思った。
「父は父、私は私」
 だと思っていたからだ。
 だが、それは父親の本当の意志に逆らうことになる。父は真美を含めたところでの新しい家庭なくして、再婚はありえないと思っていたからだ。
 真美がそのことに気付いたのは、短大を卒業してからだった。就職して今で三年目。二年目あたりから、少しずつ精神的に落ち着いてくると、それまで見えていなかったことがどんどん見えてくるようになっていた。
 それまで見えていなかったのが、ウソのようである。
「こんなにクッキリと見えているのに、どうして、学生時代までは見えていなかったんだろう?」
 確かに社会人になると、精神的な面での余裕をハッキリと感じることができるようになった。学生時代に不安定だった気持ちが瓦解していくようで、真美の中で、父親との日々が、立場的にも少し近づいた気がして、一緒に話をしてみたいと思うことが多くなった。それまでの目線がまったく違っているのである。
 下から見上げていた視線が、今度は対等に近いところから見ることができる。眩しくて浮かんでくるシルエットでは、表情が分からないので、口元が歪んだような気がすると、気持ち悪さだけが残ってしまう。対等に近い目線だと、表情がハッキリ見えて、怖いという感覚はなくなっていく。
 父親が再婚をしたいと言い出すのを待っている気がしてきた。それは、中学の時に父に感じてしまった後ろめたさが、そのまま自分の中でのトラウマになってしまっていることで、再度同じシチュエーションがなければ、元に戻すことができないと思うからだ。
「今度こそ、お父さんには幸せになってもらいたい」
 という娘らしいしおらしさを、自分の胸に秘め、父に似合う再婚相手が見つかることを祈っていた。
 父が結婚相談所に登録していることは知っていた。最初、松田は隠そうとしていたが、そういうことは意外とバレるもので、
「すまない。本当はお前に言わなければいけなかったんだが」
 と、謝ってくれたが、真美に言えないのも無理のないことだった。
「いいのよ。お父さんが、ちゃんと幸せになってくれれば、私は嬉しいんだからね」
 二十二歳にはなっているが、親から見れば、まだまだ子供、自分の再婚には、娘の賛成は不可欠だと思っていた。
作品名:魔法のエッセンス 作家名:森本晃次