交差点の中の袋小路
大学時代も友達と一緒にいるよりも一人でいることが多く、どちらかというと変わり者だったという意識が強い晴彦には、一風変わった個性の強い連中だけが集まってきた。友達だといっても、皆それぞれの個性の強さからか、あまりつるむことはなかった。その方が気楽であったし、人に関わることのない自分が本当の自分だと思っていたことが、今の晴彦の性格の大部分であることは否定できない。
就職してから、皆苦労しているのは想像できた。それだけ個性が強いからである。実際に晴彦も自分の個性の強さが社会で通用しないところも多々あることを思い知らされて落ち込んだ時期もあったが、
――これが俺の性格なんだ――
と開き直ることで、自分らしさを出せば、何とか仕事もこなしていける。別に平均的な人間であることはない、何か一つでの突出したものがあればいいのだ。
ただ、本当にそれが自分に備わっているのか、自信があるわけではないが、それでも就職担当者の目にそれなりに会社に適切者だと映ったから、この会社に就職できたのだ。そんなに自分を卑屈に考える必要などサラサラないだろう。一年目は手探りだったが、それ以降は自分なりに考えればいいのだと思った。
近藤と一緒に行ったスナックのことが頭を巡った。昨日のことを頭が思い出そうとしている。
誰も他に客はいないと思っていたが、錯覚だったのか、店を見渡した時に、奥の方に見える一人の女性が頭に浮かんだ。
影になってしまい、表情をハッキリと見ることはできないが、こちらをじっと見ているというのは分かる。
影がまるで帽子の庇のようになっており、表情は口元で分かるようだった。唇が歪むとドキッとする、その表情は女性とは思えないような不気味さで、じっと見つめるのが怖いくせに、目が離せなくなっていた。
――昨日は見るのが怖いのに見てしまったことで、今日になって、記憶の中から消えてしまったのだろうか?
という思いが頭を巡る。
口元が何度も動き、その動きが一定の法則に基づくものであることに気付くと、何かを語り掛けているように見えた。それが誰に対してのものなのか分からずに、どうやら、独り言ではないかと思えるのだ。
晴彦には読唇術のような特技は備わっていなかったが、よく見ると、その表情から、言葉が聞こえてくるようだった。
「私を捨てたりすると、殺すわよ」
と唇が動いているように思えてならないのだ。
――過去に捨てられた思い出があるのだろうか?
恨みを込める相手は、その時にはいなかった。いなかったから言えたのかも知れないが、鬼気迫る思いは、この世のものとは思えず、誰か死んだ人に対して言っている言葉ではないか。
そう思うと、気持ち悪くなってくる。
彼女が思いを寄せる人は死んだのだ。そして、彼女はそのことを知らない。自分が裏切られたことも、その人が死んだことも……。
また違う発想としては、彼女は男に裏切られた。裏切った男は彼女に殺され、今は行方不明。そして彼女は精神状態に異常をきたし、一人で同じことをずっと呟くようになった。彼女にとっては、男を独り占めできたことでの満足と、罪の意識とのジレンマで、永遠に苦しみから逃れられないのではないか。
どっちがいいのかは分からない。だが、後者はあまりにも悲惨な感じはする。現実から逃れることのできない思いは、死んだ人へのはなむけであろうか?
はなむけにしては、あまりにも悲壮感が漂っている。運命を受け入れることが素直にできない女性の、悲惨な末路を見た気がしたのだ。
本当にその女は、その場にいたのかということから、すでに晴彦には疑問だった。昨日の記憶が時系列で並んではおらず、一人で考えていると、昨日の記憶以外まで、消えてしまいそうに思えるのだった。
湿気を含んだスナックの、自分から見て一番奥の女がこちらをじっと見ている。それだけでも恐怖を感じるのに、その記憶が断片的で、しかもさっきまでまったく記憶から消えていたということが、実に不思議な世界を思い起こさせた。
――そういえば、どうやって帰ったのだろう?
近藤とどこで別れたのかも覚えていない。アルコールもそんなにたくさん飲んだわけでもないのに、ただ、近藤との会話だけが生々しく覚えているのだった。
「今日のこの時間というのは、本当にあっという間だったような気がするな」
と近藤が最初に口を開いた。
「そうですか? 僕は長かったように思いますけど?」
「それはきっと、時間を消化しきれない自分を、意識していない証拠なのかも知れないな。俺の場合は、時間を食べるという感覚になった時、あっという間に過ぎて行った気がするんだ」
と近藤は言っていた。
「意味がよく分からない」
「分からなくていいのさ。俺は自分が感じたことを、そのまま話しているだけだからな。これが俺の性格だから、お前も分かっているだろう?」
近藤の性格は分かりやすい。最初はとっつきにくいが、分かってしまうと、これほど単純な男はいない。そう思うと、晴彦は、近藤の横顔をじっと見つめた。彼ほど正面からと横顔とで表情が違っている男もいないだろうと思えた。
交差点を渡っている時に、スナックで出会った女性の気配を感じた。殺気立っているわけではなかったが、晴彦を意識して見ている視線だった。
晴彦は視線を感じながら、人ごみの中から、彼女を見つけ出すことはできなかった。
後ろを振り向いてみたが、それらしい女性がおらず、視線を感じたのも一瞬だったようで、思い過ごしではないかと思ってもおかしくないほど、一瞬であった。
交差点をもう一度戻ってみた。だが、途中まで戻って、
――戻ってどうする気だ?
と、我に返ると、何をしに戻るのか目的が見つからないことに気が付いた。戻って確かめたところでどうなるものでもない。
普段の晴彦なら、途中まで戻ったのなら、どうなるものでもないと思っていても、一旦戻りかけたのであれば、最後まで戻っていることだろう。それなのに、なぜ途中までしか戻らなかったのか、それは、きっと渡りきったところに答えがあるように思えたのだ。
踵を返し、もう一度渡り始める。二度の往復に少し気だるさを感じたが、その間に信号が変わらなかったのも不思議なものだ。渡りきるまで、信号は点滅すらしない。それほど短い交差点でもないのに、ここまで時間が長いというのも、ここだけ時間が止まっていたのではないかと思うくらいだ。
渡りきってしまうと、まるで待っていたかのように、信号が点滅を始めた。自分に信号を変える能力でもあるのではないかと思ったほどだ。
昔テレビドラマで、海を渡るのに、超能力で、海をかき分け、道を作ったというシーンを見たことがある。集団がその道を渡る間。海は開けているのだが、その後ろを追手が追いかけてくる。
自分たちが渡りきると、超能力は消え、海は元の海に帰ろうとするが、追手を巻き込んで、壮絶な波の音に悲鳴はかき消され、やがて、静かな海へと戻っていく。
「夏草やつわものどもが夢の跡」
という句があるが、まさしくその句を彷彿させるものだった。