交差点の中の袋小路
その頃までの明美は、引っ込み思案の性格が表に出ている、普通に大人しい女の子だった。愛里と親友である以外は、友達も少なく、自分の気持ちを表に出すこともあまりなかった。
そんな明美のことを気にしている男の子たちが少なくなかったことを一番よく知っていたのは、愛里だった。男性の視線に関しては、他の人よりも敏感で、それは自分に対してだけでなく、他の人に対しての視線も気になっていた。しかも、相手が明美だとすればなおさらのこと、明美は愛里自身が気になっている女性でもあったからだ。
明美に対しての視線を気にしていたもう一人の人物、それが高校時代の担任だった。愛里も同級生の視線を感じることはできたが、大人の先生の視線を感じることは、さすがにできなかった。それは、他の誰をも無視した視線で、何人とも寄せ付けない厭らしさを含んでいた。あまりにも淫靡な視線であるために、愛里には気付くすべもなかったのだ。
そんな明美を射抜く視線。明美自身は気付いていた。だが、その淫靡な視線は鋭さよりも、
「ヘビに睨まれたカエル」
のごとく、金縛りに遭った身体は、すでに先生の意のままになっていたような気がする。
ただ、先生が言い寄ってくることはなかった。厭らしい視線が、明美の身体を嘗め回すがごとく、逃げることのできない恐怖は、まさしくストーカーのものだった。
何をしてくるわけではないので、誰にも相談できない。警察などが動いてくれるはずもなく、もちろん、学校に言っても無駄であることは、明らかだ。
痛いほどの視線を浴びているわけではなく、逃れられない気持ちというのは、味わった者でしか感じることはできない。しかも、これは明美のような性格の女性でなければ味わえないことだと明美自身は思っている。
このことは、他の誰も知らない。愛里は視線に気が付いていたとしても、明美の心の奥のことが分かるわけではない。さらに明美に自分を委ねようとしている愛里に、明美を救うことなどできるはずのもないのだ。
「明美……」
愛里が自分の夢の中で明美に語り掛けても、明美は答えない。愛里の夢の中で明美は、自分から気持ちや言葉や態度を発することができても、他の人が明美に語り掛けても、明美には分かっていない。そのことを分かっているのは、夢の本人である愛里だけだった。晴彦は明美の存在を知りながら、話しかけることができないのをなぜなのかと感じていたが、その理由が、こちらから発した気持ちに対して明美が答えることになるなど、知る由もなかったのである。
先生の視線は、明美に対してだけのものではなかった。しばらくすると、先生は警察に逮捕され、学校を解雇された。理由は、他の女生徒に対して行ったストーカー行為だった。
先生がいなくなってから、明美の殻は取れたように思えたが、すぐにまた硬直が始まった。先生の視線がなくなったはずなのに、自分の身体に覚えこまされた視線が、痛さを通り越して、マヒしてしまった身体に、痺れを起させるようだった。
そんな明美を、ずっと以前から意識していた男の子がいた。その子は、明美が先生の視線に怯えながら、他の誰にも気づかれないようにしなければいけないと思いながら、苦悩の日々を送っていることを、分かっていた。
彼は、明美を助けてあげようと思って見ていたわけではない。淫靡な視線に怯えながら、それでも毅然とした態度を取っている明美に対して、
「お前のことを一番よく知っているのは、この俺なんだ」
という意識を胸に秘め、じっと見つめていた。
彼は、明美を彼女にしたいとか、付き合いたいというような意識で見ていたわけではない。
「俺だけの明美が存在するんだ」
という意識がその男にとっての快感だったのだ。
確かに、その男だけの明美が存在していたが、もし、先生の視線がなければ、その男の中にあるもう一人の明美が存在したであろうか? その男の存在を明美は、夢の中の晴彦と重ねて見てしまっているところがあった。
晴彦にとっては、まったく想像もしていない見られ方だった。むしろ、明美よりも晴彦が意識しているのは愛里だったのだ。だが、愛里の影のように存在している明美は、晴彦の中で大きな存在であることに間違いはない。
晴彦が明美を意識し始めた時、明美は高校生に戻っていた。晴彦のことを意識しているわけではないが、晴彦を見ていると、思い出すのが高校の時の先生だった。
晴彦は優男で、どう見ても、がたいが大きかった先生とは比べ物にならない。
「でも、彼の後ろに見え隠れしている人が、先生のように見えてくるのよ」
晴彦を意識している自分に言い聞かせるように呟いた。
晴彦の知り合いで、がたいが大きな人というと、近藤だった。近藤が明美の先生だったということはないはずだ。第一年齢が違いすぎる。
だが、近藤の性格を思い出せば、明美に対しての視線の主であることを否定できない気がしていた。
近藤は、竹を割ったような性格で、頼りがいがある男だと晴彦はずっと想ってきた。だが、最近気になり始めたのは、
「僕はうまく利用されているんじゃないだろうか?」
と思うことだった。
本当にウマが合い、考え方が分かるような相手であれば、利用されたとしても、それでもいいと思っていた。
人から利用されるのも、自分に利用価値があるからで、考え方が合っている人であれば、利用されたとしても、いずれは自分のメリットになると考えていた。
晴彦と近藤が友達になったのは、大学に入ってからだったが、それ以前の彼をまったく知らない。知りたいとも思わないし、近藤の方も、敢えて晴彦の過去について、何も聞こうとはしなかった。
「俺たちは気が合う仲間。それでいいのさ」
と、近藤は肩を組むようにして、晴彦に語り掛ける。そして、豪快に笑い飛ばしたかと思うと、今度は真剣な顔になって、
「今だって、すぐに過去になるのさ」
と、小さな声だが、ドスの効いた声が、響いていた。
その言葉を聞いて、晴彦は、近藤と仲良くなるのも悪くないと思った。自分と似たような考えを持っていて、通じるものがあるとすれば、相手が望んでくれているのもあって、すぐに打ち解けたのだった。
近藤にとって、晴彦は踏み台だったのだろうか? 晴彦を前面に押し出して、後ろから自分が操っているような関係は決して対等とは言えない。だが、それでも似たような考えを持っている相手なのだ。そう簡単に切り捨てる気にはなれなかった。
明美が、愛里に対して抱いているイメージも、近藤と似ているのかも知れない。愛里が明美を慕っているほど、明美は愛里を必要としていない。ただ、どこか考え方の似たところがあり、こちらも切り捨てるには忍びない。
近藤が連れていってくれた店にいた女性は、明らかに明美だった。明美も近藤も、お互いに意識しているようには思えない。むしろ、近藤が明美に気があるのではないかと思うほどだ。明美は近藤の好きなタイプの女性で、そんな女性に対してストーカーのような淫靡なまなざしができる男ではないことを、晴彦は知っていたのだ。
「好きな女の子には、苛めたくなる」