交差点の中の袋小路
天国と地獄を真逆の世界のように想像する人がいるが、死後の世界という意味では、どこまでが逆なのか、ハッキリと分からない時がある、天国は空のさらに上を思い浮かべる。そして地獄は地中深くに蠢いている世界に思える。それは人間が勝手にイメージしたもので、そもそも天国と地獄という概念も、どこから生まれたのか、疑問に感じるものである。
晴彦は、今まで夢の中で、何人もの女性と付き合ったという意識がある。彼女たちにはそれぞれ特徴があり、晴彦自身、好みのタイプが多様化しているのだろうと感じたほどだった。物静かな女性、調子のいい女性、いつもニコニコしていて自分も思わず微笑んでしまいそうになる女性、様々である。
物静かな女性の中には、目が合うと、満面の笑みを浮かべる人がいる。そのイメージが晴彦にとっては大きく残っていて、物静かな女性に自分が惹かれる一番の理由が、相手の笑顔にあると思っている。
満面の笑みに対して満面の笑みを返すのは礼儀であるが、これほど自然にできることはないと思うのだった。人を好きになるということは、本能であり、自然な気持ちの表れだと思っている自分の考えを、証明してくれているようだった。
調子のいいと思える女性も、晴彦は嫌いではなかった。一見調子のいい人には、騙されがちなところがあるのだろうが、騙されてもいいというくらいに思える女性であれば、晴彦は嫌ではなかった。
自分が誠意を持って接していれば、そのうちに気付いてくれると思うからで、気付いてくれれば、今度は正真正銘、晴彦に従順な女性になることは間違いのないことだろうと感じるからだった。
そして、何と言っても、いつもニコニコしている人が一番なのは、晴彦だけのことではないだろう。
その人が発するオーラは癒しとなり、晴彦を包んでくれている。自分から何もしなくても、すべてを与えてくれるかのようなオーラは、与えられることが、楽をするためだという考えではなく、癒しを受けているという前向きの考えに変えてくれる。それがオーラというものではないだろうか。
笑顔が暖かさを運んでくれ、暖かさが、お互いのオーラとして、倍以上の光をまわりに放っていることだろう。理想の男女関係であり、人間であることを喜ばしく思える瞬間なのだろう。
そんな彼女たちの夢をそれぞれに見ていると、普段では見ることができない
「夢の続き」
というものを見ることができる気がしていたのだ。
夢の続きは次の日ではなかったであろう。それが夢を時系列のものではないという意識にさせるもので、見た夢を思い出そうとしても、それがいつの夢だったたかなど、まったく見当もつかなかったりするものだ。
「昨日だったような気もするし、子供の頃に見た夢だったのかも知れない」
ち感じる。
逆に言えば、夢の続きを見ることができないと思っているのは勘違いで、いつの夢だったか起きてからでは覚えていないことと、夢の内容をおぼろげにされてしまうことで、夢には何かの作用をもたらす力があるのかも知れないと考えられる。その作用が、
「夢の続きなど、見ることはできないのだ」
と思い込ませることに繋がっているのだとすれば、夢が現実に残すもの、伝えるものというのは何なのかが見えてくるのではないだろうか?
少なくとも晴彦は、夢の中で付き合っていたかも知れないと思う女性たちの夢の続きを見ているという意識がある。
中には、まだ続きの人もいるのだ。きっといつか続きを見るに違いない。そして、ほとんどの女性の夢は完結している。夢で付き合うと、その愛は永遠ではないということなのだろうか?
すべてが中途半端ではない気がするにも関わらず。もう完結したと思っている女性たちの夢を見ることができないのだ。それは、きっと自分が夢の中で彼女たちから殺されるからだった。
殺されることは、夢の中では苦痛ではない。むしろ、
「夢を完結させることだ」
ということであるなら、殺されることを苦痛だとは思わない。実際に自分の命がなくなるというよりも、殺されることで、現実に引き戻される。つまり、目が覚めることに直結しているのだからだ。
普段の夢でも、肝心なところで夢から覚めてしまうということが多い。それは怖い夢であっても、楽しい夢であっても共通している。結局夢とは核心に近づけば、覚めることになっているのだ。
現実の世界でも、何かの核心に近づけば、夢から覚めるようなものがあるのだろうか。
殺されるという意識まではないまでも、それに近いショックなことを夢に見ることで、現実に引き戻されているのだろう。そして、
「肝心なところで、夢というものは目を覚ますようになっているのだ」
ということを、意識の中に植え付けられることになるのだ。
ショックなことというのは、毎回同じものなのだとうか? 疑問として浮かんでくる。ショックなことが夢から引き戻す作用に繋がっているという意識がない限り、生まれない発想ではあるが、現実の世界でもショックなことにはいくつも出会っていて、その時々のシチュエーションでも違っている。夢であっても同じこと、ショックなことが毎回同じだという発想が出てくること自体、不思議なのだ。
それなのに、晴彦は、
「同じショックなことなのかも知れない」
と思ってしまう。どこか繋がっているものが夢の中ではあるのかも知れない。
「夢の続きには、限界というものがないのだろうか?」
夢を見るということは、潜在意識の成せる業だという話を聞くが、果てしなく広がっていく夢の中では、どこかに限界が存在しなければ、歯止めが利かなくなってしまうに違いない。それを思うと、限界という言葉が頭を過ぎってくるのだった。
夢の続きを見ていると、晴彦は、そのうちにどこかで現実と交差してくる部分があるように思えてならなかった。
「夢の世界と現実とは明らかに違っていて、境目が存在するはずなのだが、それがどこなのか、分かるはずもない」
と、晴彦は思っているが、それは晴彦に限らず、皆思っていることであろう。
しかし、逆も真なりという言葉もあるが、夢と現実の境目は曖昧であって、夢だと思っていることが現実であったり、正夢であったりする。
正夢というのは、夢に見たことが現実に起こった時のことをいうのだが、晴彦は正夢に対して少し違った感覚を持っている。
正夢とは夢に見たことが起こるのではなく、起こってしまったことを、夢に見たと思うことが正夢ではないかと思うのだ。その方が理屈としては合いそうな気がするのだが、この考えは、デジャブに似ているのではないだろうか?
晴彦はデジャブというものを信じていた。
初めて見たもののはずなのに、以前に見たことだと思うことをデジャブというが、それは、あまり話題にしないだけで、誰でもが経験のあることであろう。
晴彦の考えとしては、デジャブとは、自分の経験や統計的な感覚から、起こるであろうことを予期していて、そのことが起こってしまったことへの精神的な辻褄を合わせるために記憶の中に作り上げた幻影のようなものだと思っている。実際にそういう研究をしている本を読んだことがあり、自分の考えと同じであることにビックリしたほどであった。