交差点の中の袋小路
夢の世界は、皆それぞれ独立していて、死後の世界は共通のものだという考えがあるから、二つはまったく違ったものだという考えが生まれるのである。
まったく違うものだからこそ、夢は夢で片づけられ、死後の世界とはまったく違うものだということで切り離して考えられるのだ。
では、殺されたのは、誰だったのだろう?
今から思えばどちらもだったように思う。どちらかだけの記憶が強いのは、生きているのをその後に見たからだった。もし、見ていなければ、ただの夢として、目が覚めるにしたがって忘れて行ったかも知れない。ただの怖い夢として忘れ去るには厳しい夢なので、少しくらいの意識は残っている。その意識が、さらに死んだ人間を見てしまったという恐怖と重なって、晴彦の中に残っているのであろう。
最初に殺されたのは、明美だったように思う。明美に対しての記憶は、明美が小さい頃からあった。小さかった頃の明美が死んだイメージが強い。明美を意識し始めたのが、高校生の明美くらいだったことは、途中で記憶が途切れている証拠として、殺されたという夢がまとわりついているからなのかも知れない。
自分が死ぬという感覚を夢に見たことがある。人が死ぬ姿を見せつけられることさえなければ、死ぬということへの恐怖は、さほどないのではないだろうか。
死ぬということに対して最初に感じるのは、痛いか痛くないかという肉体的な感覚についてである。まずは直接的に感じることから気になるのは当たり前のことで、痛みを感じることは嫌だと思うのも、無理にないことだ。
痛さと苦しさ、死に対して感じるのは、同じ感覚だった。
――痛ければ苦しい。苦しければ痛みを伴うものだ――
という感覚だった。
確かに痛みを伴うのは嫌だ。自殺を企てる人が、どの方法で死のうかと考えるのも、まずは苦しまずに済む方法を考えるだろう。
首吊り、睡眠薬、飛び降り、飛び込み、手首裂傷など、いろいろあるだろうが、晴彦は想像するだけでおぞましかった。
死ぬという感覚の次に感じることは、実際に息絶えるまでに、どれほどの時間が掛かるかということだ。
苦しんでいる間に絶命することもあると聞くが、実際にまわりから苦しんでいるのを見るのと、苦しんでいる本人との感じ方がどれほど違うかである。
苦しんでいるのを見てしまうと、恐怖が頭から離れなくなる。特にすぐに死を控えている人であればなおさらだ。そういうシーンをドラマなどで見れば確かに頭にこびりついた恐怖は、本当の死よりも恐ろしいものなのかも知れない。
晴彦は、死の瞬間はあっという間で、それまでの苦痛が恐怖と一緒になって、最後に断末魔の瞬間には、大往生のように、静かに終わるのではないかと思うのだった。途中にどんなプロセスがあろうとも、死んでしまえば同じこと、そこから先をいかに進むかは、自分の意志によらないところで決められる。
夢の中では決して死ぬことはない。死んでしまうということは、そこで夢が途絶えてしまうということだ。
「夢の中での死と、実際の死と、二つの死が待ち構えている」
人の中には、死を迎えて、
「翌日には、自分は死んでしまうんだ」
ということが分かるのか、遺言を残したり、身の回りのものを急に整理する人がいる。死に対しての正夢を信じている人であろう。
死に対しての夢は正夢に近いと信じている人は多いのかも知れない。宗教的な考えが強く、死に対して、宗派によって受け止め方もバラバラではないだろうか。
死後の世界に思いを馳せるのは、誰にでもあることだろう。それを小説やドラマ、アニメで表現する人はたくさんいるが、どうしても恐怖とは切っても切り離せない領域だ。
死後の世界を表現することで、この世に対してのやるせなさや、叶わぬ思いを死後の世界に求める人もいるだろう。宗教観の中には、生きている時から、死後の世界を思いうけば、絶えず意識しながら生きることを教えるものも少なくはない。戒律などはその最たる例ではないだろうか。
絵の中にも死後の世界に思いを馳せるものもある。行先は極楽浄土か、果たして地獄か、どちらをイメージするかによって、絵に対する力の入れ方も違ってくるというものだ。
死後の世界というと、晴彦は、まず地獄を思い浮かべる。それは自分が地獄に落ちるという思いではなく、単純に、インパクトの強い方が頭に残るものだと思っているからであって、それも無理のないことだ。
地獄の絵を見て、そのイメージが脳裏に残ったことで、絵を描く趣味に結びついたと言っても過言ではない。ただ、絵を描こうと思うようになったのは、大学の頃で、それまでまったく絵に興味がなかったのがウソのようだ。
「どうした風の吹き回しだ」
と、まわりから言われたものだが、
「急に思い立ったのさ」
と答えたが、それは半分本当のことだった。
後の半分はウソであるが、急に思いついたわけでもなかったからだ。
自分から死を選ぶことは、絶対にしないと思いながらも死を意識してしまうのは、
「誰かに殺されるかも知れない」
という予感が頭を離れないからだ。
それは故意ではない、事故のようなものかも知れないが、事故であるならば、一瞬のことであって、一番楽な死に方なのかも知れない。
ただ、それも死んでしまってから感じることができないことなので、矛盾の中にしか存在しえない理屈であった。
死んでから出会う人もいる。その人たちは、いつ死んだのだろう? まず最初に出会うのは、同じ頃に死んだ人であり、身近の人ではないことが前提のように思えた。
最初から身近な人と出会ってしまうと、死ぬ前の意識がよみがえり、却って死んだことを余計に意識してしまって、辛くなるのは自分だけだと思えてくる。
一人で辛い思いをするのは、気が楽ではあるが、まわりが見えなくなりそうで、あまりいい傾向ではないように思う。
まず出会う場所がどこであるかである。三蔵の川のように想像できるところであればいいのだが、そうでなければ、現実の世界しか思い浮かばない。いきなり蓮の花が咲いていたり、血の海が見える世界を想像などできないものだ。
蓮の花が咲いている世界は、何となく想像がつく。子供の頃に行った温泉で、天国をイメージしたシチュエーションの場所が、似ていたのだ。地獄のイメージもあったが、子供心に怖かったせいもあって、ほとんど覚えていない。子供にありがちな怖いもの知らずという言葉は、晴彦には似合わない。
それだけに天国が死後の世界だという気持ちのままに夢を見ると、地獄を想像できないことで、知らない世界の夢を見ると、
「これが地獄という世界ではないか」
という思いに駆られて、地獄に対してのイメージが、膨らみ続けるのであった。
膨らんできたイメージは次第に大きくなるが、ある時点を境に、狭まってくる。限界を見てしまうと、後は縮んでいくものだという意識が強くなってくる。