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交差点の中の袋小路

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 朝の目覚めで眠気を残してしまうと、その日はずっと体調が悪いまま推移してしまうようだ。昼下がりにゆっくりした気分になると、ふいに睡魔が襲ってきて、それに耐えていると、またしても頭痛に悩まされる。
 この頭痛は朝目覚めの時の頭痛とは違っていて、頭の重たさは伴っていない。その代わり、頭痛とともに吐き気が襲ってくることがある。そうなってくると、頭痛薬を飲まないと収まらなくなってくる。
「俺は頭痛持ちだから」
 とまわりに話しているのは、この時のために、いつも頭痛薬を持ち歩いているからであった。
 コーヒーで一番おいしく感じるのは。最初の一口ではなかった。最初の一口は、苦いだけで、実際の味はよく分からない。二口、三口と飲んでいくうちに舌が苦さに慣れてきて、苦さという味覚がマヒした時、おいしさを初めて感じる。晴彦にとっての一口目は、この瞬間だったのだ。
「コーヒーの醍醐味は、味だけではなく、香りになるんだよね」
 むしろ晴彦は味よりも香りこそが、コーヒーの醍醐味だと思っている。醍醐味を味わっているのは、口にする以前からであって、一口目を口にする頃には、半分以上コーヒーを堪能した後だと言っても過言ではないだろう。
 コーヒーの醍醐味を味わいながら、朝のひと時を過ごしていると、一日の中で一番時間の感覚をマヒさせるであろう時間を過ごしているという感覚が頭を過ぎる。
――これこそ、コーヒーも魔法のようなものなのかも知れないな――
 魅力でも魔力でもない。魔法なのだ。
 コーヒー自体に魔力や魅力が備わっているのは分かっているが、コーヒーが自らまわりに影響を及ぼすオーラを放っていることで、晴彦は「魔法」だと思うのだ。そのものだけが及ぼす力ではなく、そのものの影響がまわりすら動かして、自分の力として作用させること、それが魔法だと晴彦は思うのだった。
 魔法の及ぼす効果が、昼下がりに起こる頭痛を、少しでも和らげてくれていると思っている。もし、モーニングコーヒーを飲まないと、毎日頭痛に悩まされるのではないかと思うからだ。
 だが、逆も言えるのではないか。
 晴彦はモーニングコーヒーを欠かさないようになったのは、二十歳過ぎてからだった。それまでのも、昼下がりの頭痛はあったのだが、今ほど頻繁ではなく、しかも、ここまでひどいものではなかった。そう思うと、晴彦がモーニングコーヒーをもし、始めていなかったら? と思うと、頭痛とモーニングコーヒーの因果関係が違った意味で深かったことを示している。
 コーヒーというのは、麻薬のようなものである。病みつきになると、やめられなくなるもので、その成分は、麻薬と同種類の「アルカロイド」と称されるカフェインである。
 もちろん、そのことは分かっている。精神安定のために、コーヒーを好んで飲む人が多い。その人たちがカフェインは知っていても、アルカロイドとしてのカフェインの効果を果たしてどれだけ知っているのかというのは、興味深いところであった。
 コーヒーの効果と、木漏れ日によってすっかり目を覚ました晴彦は、やっとその時になって部屋の中に流れている音楽を気にするのだった。
 音楽もタイマーを仕掛けておいて、コーヒーメーカーが動き出すタイミングに合わせて動くようにセットしてあった。
 殺風景ではないことだけを意識していた。掛かっている音楽はクラシック。これは学生時代から続けていることで、朝の目覚めはシンフォニーと決めていた。
 毎日同じではないが、朝に似合う音楽を適当に見繕い、ローテーションを組んで朝流すようにしている。いつも聞いている音楽なので、聴覚もマンネリ化してしまっているのはしょうがないが、それでも、目が覚めるまで意識しないというのは、面白い現象である。
 その日は、「くるみ割り人形」の日だった。軽い音楽で、組曲になっているので、多彩な曲調を楽しめる。晴彦としては何度も聴く音楽としては最適だと思っているクラシックであった。
「この曲を聴いていると、切るタイミングを逸してしまうのが、欠点だな」
 と思った。
 シンフォニーは、決して短い音楽ではない。目が覚めてから、ゆっくりと聴いていても、そろそろ出かけたいと思う時間までに終わるわけではないので、いつもどこかのタイミングで切って、出かけるようにしている。
 この曲の時でも同じなのだが、この曲ほど切るタイミングを想い図るのが難しい曲はない。なぜならこの曲を聴いていると、いろいろなことが走馬灯になって頭の中を巡るからであった。
 他のシンフォニーでも同じなのだが、この曲の場合には幾通りもの思い出が頭を巡る。組曲になっているのだから当然と言えば当然なのだが、「くるみ割り人形」には、何か特別の思い出があったように思えてならなかった。それが何なのかその時には分からなかったが、その日、しかもそれもあまり遠くない将来に思い出すことになるとは、その時まったく想像もしていなかった晴彦だった。
 音楽も佳境に入ってきて、さすがに途中で止める気にならず、そのまま聞き入っていた。
「たまには、こんな日があってもいいか」
 と、独り言ちて、コーヒーを一口口にした。
 出かける時は、コーヒーカップを洗わずに水に浸けたまま出かける。洗い物が嫌だというわけではなく、気分の問題であった。せっかくスッキリした頭で、手を水に濡らし、洗剤を使う気にはなれないからだ。
 そういうところが変わっていると言われるゆえんなのだろうが、晴彦は一向に構わない。誰と比較して変わっていると言われているのか分からないし、世間一般の人と比較してというのであれば、まさにそんなことは関係ないと言いたいくらいだ。
 音楽が終わりかける頃、ちょうどコーヒーを飲み干し、洗い場に満たした水にカップを浸して、あとは部屋を出るだけであった。
 カギを表から回した時、カチッという音がするが、いつもよりも響いたような気がした。確かにマンションの通路は音響が響くようになっているが、いつもより音が響いて感じたのは、それだけ、まわりが静寂だったからなのだ。
 静寂を感じると、晴彦は耳鳴りがしていると思う。
「キーン」
 その音が、耳の奥に響くことで、静寂を感じるのだ。
「静寂とは、まわりの音を吸収することで起こる自然現象だ」
 というのが、晴彦の静寂への考え方だが、静寂がまわりの音を吸収するために起こる音が、「キーン」という耳鳴りだと理解している。そう思うことで、静寂と耳鳴りの関係を説明でき、静寂がそれほど怖いものではないことを教えてくれる。
 静寂が怖いという人を何人か知っているが、それは静寂自身が怖いわけではなく、それに伴って生じる耳鳴りが怖いのかも知れない。だが、そんな人に晴彦の論理を説明しても、却って静寂に対しての恐怖が増すばかりで、結局は恐怖を解消する理屈にはならないであろう。
 カギを回す音がその日、大きかったと感じた晴彦は、違和感はあったが、恐怖を感じたわけではない。むしろ、ワクワクするような感覚があったのだ。
「こんな感覚は久しぶりだな」
作品名:交差点の中の袋小路 作家名:森本晃次