交差点の中の袋小路
それだけでも来てよかったと、晴彦は思った。ひょっとすると、今日が最初で最後だと思っていたこの店に、これからも通うかも知れないと思ったくらいだ。元々スナックなどあまり通ったことがない晴彦だったが、自分としては、しおり一人が、店の雰囲気を度返ししても、通ってくるだけの価値を感じていたのだ。
――スナックの常連になるというのは、こういう心境なのかも知れないな――
本当は、あまりスナックの常連になりたいと思っているわけではない。お金もかかるし、それほど、お酒が好きだというわけでもない。ただ、しおりとは、いろいろ話をしてみたいという衝動に駆られたのは間違いないことで、勘違いなどではなかった。
しおりというのは、おそらく本名ではないだろう。こういうお店での「源氏名」、分かっているが、本人がその名前にしたいと思ったのだとすれば、晴彦も好きな名前であることから、きっとしおりとは気が合うのではないだろうかと思うのだった。
しおりは、ほとんど自分から喋ろうとしなかったが、顔は見合わせるようになっていた。こちらが聞いたことに対しては、ちゃんと答えてくれる。その時の目線は晴彦を捉えていて、黒い瞳の中に、自分を姿が写っているのが見えるくらいだった。
しおりの瞳はまっ黒ではなく、微妙な青さを感じた。まるで外国人のような感じを受けたが、それは瞳だけを見ている時で、顔全体を見ていると、瞳は綺麗な黒瞳だった。
――瞳を見ていると、以前にも同じような思いをしたことがあったのを思い出す――
それがいつのことだったのか、ハッキリと思い出すことはできない。元々、記憶など、ハッキリとした時系列で収められているものではなく、昨日のことが、子供の頃だったような遠い記憶だったり、子供の頃の記憶がまるで昨日だったような鮮明さを保ったまま封印されていることもあった。
ただ、瞳を見ていると吸い込まれそうな錯覚を覚えるのは、正直、相当昔のことではないだろうか。忘却の彼方にあったものが、しおりの瞳を見た瞬間によみがえってくる。新鮮さでもあるが、不気味な気持ちも無きにしも非ずであった。この日のこの空間は、不思議な魔法に掛かったかのような時間として、ゆっくりと過ぎていくようだった。
――今日の会話を、明日には忘れているかも知れないな――
どうにも掴みどころのない会話に思えていた。
忘れているというよりも、封印されるのだろう。それも自分の意志を持って封印しようとしているはずなのに、どこか他人事のように思えるに違いない。どうして、先のことまでここまで手に取るように感じるのか、晴彦にはまだその時、よく分かっていなかった。
ゆっくりと過ぎていたと思っていた時間だったが、気が付けば、そろそろ日付が変わろうとしている。
「あっという間でしたわね」
ママさんが、そういうと、近藤は黙って頷き、
「そろそろ行こうか?」
と、晴彦を制して、お金を払うと、先に店の表に出ていた。
会話がなくなってしまった晴彦には渡りに船だったはずなのに、いざ店から出ようとすると寂しさが心の奥に残っているのを感じた。
その日は結局、他に客は誰も来ずに、二人だけの独占した時間だったが、
「たまには、こんな日があってもいいわね。今日はこれで看板にしましょう」
と、ママさんは、店を閉めるよう、他の女の子に話しかけた。晴彦としおりが会話している間、近藤は他の女の子と話をしていたようだが、二人にとっての静かな時間であったことには違いがなかった。看板になって晴彦は、これからもこの店には時々来ることになることを、確信していたのだった。
翌日は土曜日で、晴彦は朝ゆっくりと寝て、起きてきたのは十時過ぎだった。休みの日に十時過ぎまで寝ているということは珍しくはない。前の日に休みを見越して、少し残業に勤しんだために、溜まった疲れからか、目を覚ます機会を逃すのである。
休日の朝、予定でもない限り、目覚まし時計を仕掛けることはない。せっかくの休日、時間を大切に使いたいと思っているので、あまり遅くまで寝ていることを望んではいないが、それでも睡眠を邪魔される方が嫌であった。なぜなら、せっかくの一日の最初を、嫌な思いで始めたくないからであった。
ゆっくり寝ていると言っても、どんなに遅くとも昼までには目を覚ます。日ごろの生活が身についている証拠であり、それ以上の睡眠は却って体調に悪い影響を与えてしまうからである。
十時過ぎというと、
「少しゆっくりだったかな?」
と感じる程度で、さほどその日の予定を圧迫するほどの時間ではないと思っている。目が覚めてからゆっくりもできるし、出かけるとしても、昼前には出ることができる。中途半端な時間でもなかったのだ。
部屋のカーテンの隙間から、朝日が木漏れ日となって差し込んでくる。一筋の光が目の前に、小さな塵を浮かべて、それを見ていると、遠近感が取れていない自分を感じるのだが、この感覚も嫌いではなかった。一生懸命に焦点を合わせようとしている努力は、覚めきっていない目を覚ますのには絶好であった。
顔を洗って、ある程度はスッキリはしているが、自分から覚まそうとした目ではないので、完全に目が覚めているわけではない。それでも木漏れ日も手伝ってか、ある程度目が覚めてくると、起きてから淹れはじめたコーヒーが、おいしく感じられるはずなので、それが嬉しかったのだ。
コーヒーは、ミルクを入れることもなく、ブラックでいただく。これが晴彦の日課だった。
仕事の日でも、朝からタイマーを仕掛けておいて、目が覚めた頃に出来上がるコーヒーを飲んで出勤する。これから待っている仕事を思うと、休日のそれとは比較にならないほどおいしさを感じないが、それでも朝の始まり、儀式としては、大切な時間の一つであった。
「朝を大切にしていると、一日が終わった時に感じるその日一日の感覚が、まるで違っているものになるわよ」
晴彦が学生時代に付き合っていた女の子が教えてくれた。初めて彼女が晴彦の部屋を訪れた時に、話してくれたことで、夜愛し合った後の、目覚めの気だるさを、彼女はそう言って癒してくれた。
晴彦が付き合ったことのある女性は何人かいたが、彼女たち、一人一人に存在する想いでの中で、この言葉のように、言葉としての思い出が、必ず一言はあった。だから、彼女たちと別れて辛さ、寂しさはあったが、その中でもどこか付き合えたことへの満足感と、彼女たちへの感謝の気持ちがあったのも事実である。
彼女からその話を聞いた時、初めて木漏れ日の小さな塵の存在を再認識した気がした。木漏れ日も塵の存在も分かっていたが、それが自分にどのような影響を与えるかなど、考えたこともなかったからだ。
目が覚めて、気分がスッキリしてくる時間は、晴彦にとって至高の時間でもあった。目覚めは、正直いい方ではない。二回に一回の目覚めは頭痛に悩まされる。頭の痛さは重たさを伴っていて、鼻の通りを悪くする。喉の痛みを伴っているのにも気づくが、喉の痛みは、鼻の通りから影響しているようだ。