交差点の中の袋小路
目が覚める時に、これほどスッキリする目覚めはない。布団の上でも、これほどスッキリした目覚めはほとんどなく、だから、夢を見たいと思うのかも知れない。
ただ、その夢には愛里自体が出てくるわけではない。自分ではない人が出てきて、主人公を演じている。いつも主人公は同じなのだが、愛里にはその人が誰なのか分からない。
どこかで会ったことがあるような気はするのだが、面識があるかと言われれば、ハッキリとしない。少なくとも話をしたことがないのは事実であった。
夢の中は、さながらサイレントが繰り返される。字幕のないサイレント映画、モノクロな映像は、動きもぎこちない。
「愛里」
誰かが声を掛けてくるが、夢の中に出てこない愛里なので、誰も返事をすることはない。サイレント映画の外から、サイレント映画に向かって話しかけているのだ。もし、映画の中に愛理が出演していても、その声に気付かないのではないだろうか。
八回、愛里に呼びかける。なぜかいつも八回なのである。等間隔で声を掛ける声の主は、八回目に声を掛けてからは、もう夢の中に登場することはなかった。夢のプロローグの演出の一人であったのだ。
主人公は、いつも同じなのだが場面は違っている。それにともないシチュエーションも違っている。
これも不思議なことなのだが、登場人物の数もいつも決まっている。主人公を入れて八人。いつもこの八人で構成されるサイレント映画なのだ。
主人公も最初から最後までスクリーンに登場するわけではない。知らない人が見ると、その人が主人公だとは思わないだろう。毎回登場するのがその人だというだけで。主人公だというのも、愛里が勝手に想っているだけのことだった。
とはいっても、夢を見ているのは愛里である。自分の夢なので、勝手に何を思おうが自由なはずである。それなのに、
――自分の夢であって、自分だけのものではない――
と、思っている。それは、夢の中に誰か他の人が入り込んでいるように思うからだ。
――夢の共有――
一言でいえば、そういうことなのだが、一体誰と共有しているというのだろう? 毎回同じ人だとは思えないのは、きっと登場人物が毎回違うからだろう。
「愛里は、想像力が豊かね」
明美からそう言われたことがあったが、
「想像力が豊かなんじゃないの。夢の中で創造するのが豊かなのよ。創造というのは、作るという意味の創造ね」
と、返事をした。
話していて、納得しながら話しているわけではないが、説得力を感じる返事だった。自分が納得したからこそ、説得力というのが生まれるものだと思っているのに、実に不思議な感覚だった。
豊かな説得力を感じていると、夢の続きが見たいと思うようになった。
ちょうど夢はキリがいいはずなのに、夢の続きというのはどういうことだろう? それは説得力にともなった納得を自分自身で味わいたいと思っているからなのかも知れない。
夢の続きを一度見たような気がした。
それはちょうどいいところで目を覚ましたのだが、いつもであれば、そのまま気分よく目を覚まし、本の続きでも読もうと思うのだが、その時は。まだ睡魔が残っていたのだ。
「そんなに、疲れが残っているのかしら?」
と、我ながらビックリしたが、夢はまだまだ見たりないと、ここで初めて感じたのだった。
睡魔に任せて眠りに入ると、そこはさっきの続きの夢だった。
――想像通りだわ――
夢の続きを見ていると、今度は次の瞬間に何が起こるか、手に取るように分かってきた。それまでは夢の続きを想像するのは難しかったのだ。なぜなら夢は創造するもので。想像するものではなかったからだ。想像しようと思うと、頭の中には浮かんでこない。ここの夢の世界は、そんな考えを頭の中に抱かせる世界だったのだ。
その時は、まさしく「想像」だったのだ。
夢が潜在意識の成せる業だということを、今さらながらに思い知らされたものだ。では、創造によるものは夢だと思っていたが違うのだろうか?
夢の世界を垣間見たと思った愛里は、夢の共有者を想像してみた。もちろん、その人が現れることはないと思っている。ひょっとすると、想像することすら、してはいけないことなのかも知れない。
いつも創造している世界は、時間の感覚が漠然としてだが、あるのだ。どちらかというと、創造している夢の方がより現実の世界に近い。
「現実の世界の方が、創造の世界に近いのかも知れない」
と、まるで自分中心の世界であることを誇示するかのような考えであった。創造する夢の世界のことを誰にも話したことがないので、そう感じるのかも知れない。
本当は人に話したくてウズウズしているのだが、話をしても、バカにされるだけだと思い。誰にも話したことはなかった。だからこそ、自分の世界だと思うのであって、それなのに人と共有していると思うのは、一人だけの世界にしておきたくないという矛盾した考えがあるのも事実だった。
紅茶の持つ発汗作用というのは、そんな夢の世界を作り出すのに必要なものだ。余計な雑念を汗とともに吐き出して、自分の中に創造しやすい環境を作り上げる。それが愛里の考え方であった。
明美にとって愛里は特別な存在だった。夢を共有している感覚があったからだ。愛里は自分の夢の中を、明美が見ているなどということに、気付いていないに違いない。
人に見られているという感覚は、見られている本人にとって、両極端なものかも知れない。
気付かない人はまったく気づかない。普段から鈍感というわけではないのに、夢のことになると分からなくなるのだ。逆に気付く人は、これほど目敏いものだとは思わないくらい、まわりの視線が気になったりしているようだ。
――誰の夢か分からないので、どうしてもまわりを意識してしまう――
明美は、他の人が夢を共有しているのを、そういう風に感じていた。
しかし、明美が見る夢は、相手が愛里だと分かっているのだ。分かっているから安心だと思う部分と、隠し事はできないと感じる部分とに分かれている。夢の中では相手の気持ちが分かるような気がするからだ。
愛里は、自分と夢の共有をしているのが明美であることは知らないかも知れない。知っていれば意識してしまって、まともに話をもできるはずのない人だからだ。
――愛里が、相手を私だと知ってしまうと、もう私のまわりに近寄らなくなってくるかしら?
明美はそう感じていたが、実際に愛里が知ってしまうと、却って明美を意識してしまう。明美に対して恥かしい態度は取れないのだとばかりに、急によそよそしさが見えるようになると、今度は明美が寂しさを感じてしまった。
――離れて行くわけではなく、かといって近づいてくるわけではない。適度な距離を保って、つかず離れずの関係を、愛里が私に課したんだわ――
と、感じた。
人から押し付けられた距離感は、明美のプライドが許さない。距離感を感じないくらいになるには主導権を自分で握ることが大切だ、
握った主導権を、保ち続けるのは結構きついことである。