交差点の中の袋小路
「ああ、そうだよ。二股、三股、あった気がするな」
と、あまり気にしていないようだった。
晴彦などは重複した期間があると、話をしていても時々もう一人の女性を思い浮かべてしまって、話す相手を間違えそうな気がする。
そんな近藤だったら、もう少し洒落た店を紹介してくれるものだと思っていたが、少し拍子抜けした。白壁のちょっとした明かりでも、白く映える姿が、店の雰囲気を大きく、そして奥行きを深く見せてくれるような店を想像していた。それが垢抜けた店のイメージで、そういう意味では近藤に似合わないかも知れないが、それでも、好感度がアップすることは間違いなかった。
――近藤は、俺のことを嫌っているのかな?
と感じるほどで、それなのに誘いを掛けてきたのは、他に誘う人が皆用事があったからなのかと思えた。
確かに近藤とは入社以来、結構一緒に食事をしたりすることが多かったが、二人で夜の店に行くのは初めてだった。夜の店での近藤がどんな雰囲気なのかは想像がつくが、こじんまりした店を選んだということは、近藤の武勇伝にまつわるような部分を見せたくないという思いは贔屓目であろうか。晴彦のことを、昼の友達として意識しているのかも知れない。
近藤は、そんなに友達を区別するようなやつではなかったように思うのは、晴彦の気のせいであろうか。
お店の中の雰囲気は、静かだった。音楽は流れているが、クラシックのような、ジャズのような、不思議な音楽が流れていた。どうやら、まだお店が本格的に開店する前のようだ。
「いらっしゃいませ。すみません。お店は八時から何ですが」
時計を見ると、七時半を少し過ぎたところ、店の雰囲気が暗いのも当然であった。中から出てきたのは、背の小ささが目立つ女性で、年齢的には四十歳前くらいに感じたが、やつれ方を見ると、さらに年が上ではないかと思うほどの雰囲気に、少したじろいでしまった晴彦だった。
「そう言わないでくださいよ。もう、いいですよね?」
豪快な男が小さい女性に掛けた声に迫力はなく、優しさが感じられた。そこにはやつれた身体をいたわるように後ろから覆いかぶさるかのように見える様子は、いじらしさと、暖かさが感じられた。
「ああ、近ちゃんね。近ちゃんなら、全然問題ないわよ」
覆いかぶさられたことで、相手が近藤であることがすぐに分かったようで、振り返った女性は、少し怯えを残したまま、大男を見上げていた。
表情はまるで、
「助かった」
と言わんばかりの安堵感が満ち溢れていた。
「ママさんがいなかったら、思わず帰っちゃおうかって思いましたよ」
と言って、豪快に笑う。
二人はまるで親子ではないかと思うほどの暖かさが溢れている。どちらかというと、二人とも笑顔を苦手とするタイプだと思っただけに、意外な感じを受けた。
豪快な笑いは、その場に緊張感を張るか、あるいは、緊張を和らげる時もある。近藤の笑いは、緊張を和らげる方なのかも知れない。緊張を和らげるにはそれなりの効果が必要だが、近藤の笑いにはそれがあるようだった。
「じゃあ、いつもの席ね」
と言われる間もなく、近藤は、カウンターの一番奥に腰かけた。どうやら、そこが近藤の指定席のようだ。
晴彦は、その隣を一つあけ、自分も座った。
カウンターの奥の席に座るのは、晴彦と同じだ。一番端からまわりを見渡す感覚は、空間全体を凌駕しているかのようだった。
特に近藤は背が高い。ということは座高も高く、他の人よりも高い位置から見下ろすことができる。晴彦が見ることのできない高い場所から見渡せるとすれば、どんな光景が広がっているというのだろう。
全体を見渡すことができるが、その分、少しだけ自分よりも狭く感じることだろう。だが、比較するものがない視界は、小さいなどという感覚が一切ない中で見ていると、それが本当の大きさだとしか見えてこないことだろう。
人が見渡す中に自分がいるというのもおかしな感覚だ。いつもは自分が見渡す側にいて、しかも晴彦が座っている席には、人は誰もいない状態をいつも作っていた。
晴彦の馴染みの店は喫茶店で、その店は、常連ばかりの店であった。
晴彦が最初に入った時、
「まさか、俺が常連になるなんて」
と、まわりに話したほどである。まわりの人も同じ思いで、晴彦が常連になったことを一番不思議に思っている人が結構多かった。
常連になれる店か、なれない店かというのは、すぐに決まるものだと、晴彦は思っている。また来てみたい店か、二度と来たくない店かというのは、常連がどの席に座るかということで決まると思っている。
ということは、その店に常連がたくさんいることが最低条件だ。常連がたくさんいて、さらに常連の座る席が決まっている。そして、自分が据わりたい席に、誰も座ろうとしない。最後のこの条件が一番難しい関門と言えよう。
その店は、自分が座る席に誰もいないという難関を突破し、晴彦の常連の店という切符を手にした。常連になる人にとって、晴彦のようなこだわりを持っている必要があるとするならば、常連の数が多いお店というのは、それだけ、希少価値に近いものを持っているのであろう。
店主が変わり者であったり、何か共通の目的を持っている店主のところに、自然と客が集まってくるというのであれば、常連の多い店というのは、常連で持っているのではなく、店主が常連を惹きつける魅力を持っているのかも知れない。晴彦の馴染みの店の店主は、魅力はあるが、変わり者である。そういう意味ではどちらの要素も兼ね備えている店主だと言えよう。
店の女の子が、しばらくすると出勤してきた。
「おはようございます」
一人二人と入ってくる。
「あ、近ちゃん、いらっしゃい」
気軽に声を掛けられた近藤は、右手を上げて答えていた。
「今日からこのお店に入ったしおりちゃんです。よろしくね」
と、ママさんが、後ろから一人の女の子の両肩を抱くようにして、紹介した。
「あ、初めまして、しおりと申します。よろしくお願いいたします」
と言って、しおりはなかなか上げられない顔を下に向けたまま、小さな声で挨拶してくれた。恥かしがり屋なのか、それとも、不安がいっぱいで頭を上げることができないのか、しおりの雰囲気を見るかぎり、不安がいっぱいなのは間違いないだろう。
近藤の表情が少し変わったのを、晴彦は見逃さなかった。視線は、しおりに行っていたのに、よく近藤の表情の変化を見逃さなかったものだと思ったものだ。
近藤は何も言わずに、頭を下げた。その様子を横目に見ながら、
「こちらこそ、宜しくお願いいたします」
と、晴彦が代表して答えた。お互いにこの店が初めてだというのに、おかしなものだ。そう思うと、晴彦は思わず、笑みが毀れた。
その笑みがしおりの緊張感を和らげるのに効果があったのか、しおりも初めて表情が緩んだ、心を許してくれているようで、晴彦は嬉しかった。