交差点の中の袋小路
もう一つの世界の妻の表情は。完全にうろたえていて、見ていて可哀そう以外の何物でもない。同じ自分であるとはいえ、ここまで彼女を苛めなくてもいいのではないかと思うほど冷酷であった。そして、できることなら、もう一人の自分と入れ替わりたいと思う気持ちを持とうとした時、
「それはいけない」
と制する声が聞こえた。
その声は男だった。
少し籠った声ではあるが、どこかで聞いた声、あまり好きではないその声の主が誰であるか、しばらくして気付いた。
――これは僕の声――
晴彦は、自分の声が好きではなかった。鼻に掛かったような声で、まるで人をバカにしたようにも聞こえてきそうで気持ち悪かったのだ。
だが、人によっては、この声が好きだという人がいる。
「物好きもいるものだ」
と思っていたが。実際には他にも晴彦の声が好きな人がいるようだ。
「お前の声は声優に似ているんだよ」
子供に人気の声優の名前を出されたが、自分にはピンと来なかった。
「そんなに似ているとは思えないがな」
顔は自分で見るには鏡のような反射物を見ないと見ることができない。声の場合も録音機でもなければ、聞くことはできない。それを思うと、晴彦は自分の声を聴いたことがなかったことを思い知らされた。
自分で感じている声に比べて、少し高い声で、しかも籠っている。一番自分が嫌いに感じる声であることを実は前から気付いていたように思えたのは、声優に似ていると聞かされたからなのかも知れない。
その声がもう一人の自分で、自分を入れ替わることを否定しているのは、今に立場に満足しているから、まったく逆の人生を歩みたくないという気持ちの表れであろうか?
いや、もう一人の自分に入れ替わることを考えた時、最初は、
――どんなにいいだろうか?
と思ったが、同じ人間なのだとすれば、確かにその場面で入れ替わってしまえば、しばらくはいい思いをできるかも知れないが、そのうちにボロが出てきてしまう。要するにその人が歩んできた人生をお互いに知らないからだ。
まったく同じ人がそれぞれの世界にいたとしても、自分一人だけでも、これほど違う人生を歩んでいるのだ。自分だけが、違う世界を形成しているとか考えられない。もしそうであるとするならば、根本的に見ることができない世界でなければいけないはずだ。
しょせん夢の中の妄想だと思うこともできるが、考えているうちに発想は一つの結論に繋がっているようだ。どこまで繋がっていくのか、晴彦はそれ以上余計な想像してはいけないように思えた。
だが、離婚したあとのことは分からない。夢の中ではなく、自分ではない話として想像することはできるのだろう。だが、そこに信憑性は感じられない。もう一人の自分の世界は、一つしかないのだろうか?
一つの世界の中で、たくさんの人が犇めき合うように生きていることが、もう一つの世界を知ったことで、感じるようになった。いくら向こうは同じ自分であるとはいえ、自分が違うのか、それともまわりの環境が違っているのかで、赤の他人の出来事のように思えてくるのだった。
晴彦が今の世界で生活していると、時々、誰かに見られているような視線を感じることがあった。その視線は、上の方から見られていて。まるで落とし穴に落ち込んだ人間を、上から覗いているような感覚である。箱庭のような限られた世界を、さらにまわりに存在する世界が見つめているようにも見えるのだった。
もう一つの世界の存在を、心の中でウスウス気付いていたような気がする。気付いたことで、心の中で、してやったりだという気持ちもある。だが、不安な気持ちに拍車を掛けたのも事実で、自分が絶えず何かの不安に苛まれて生きていることを、今さらながらに思い知らされたのだ。
その後の二人がどうなったのか、勝手に妄想を始める自分がいた。垣間見ることはできなくても、妄想くらいはいいであろう。妄想も、
――過ぎたるは及ばざるがごとし――
ということわざにもある通り、深く考えすぎると、却って考えが及んでいないことに気付かないまま、迷走してしまうであろう。特に、同じ顔をした外見上まったく同じに見える自分で、他の人からは見わけがつかないはずなのに、自分だけには違いが分かる。そんな自分を初めて見た時の驚きは、他の人では絶対に分からないだろう。
まったく同じシチュエーションであっても、驚きは他の人と違っていて、個人差の激しさが、モロに出てしまうのではないかと思えた。
――僕の場合の驚きは、ひどいものなのだろうか?
自分では、かなりのものだと思っているが、他の人と比較ができないだけに何とも言えないところだ。他の人との違いをあまり考えたことがないだけに、初めて考えることが、ひどいショックを受けたことだけに、言葉も出ない状態になっているのだった。
――もう一つの世界の自分も同じことを思っているのだろうか?
何よりも、相手がこちらの世界のことを認識しているかどうかである。晴彦の考え方としては、こちらが覗いたのと少しずれた時間に向こうも覗いているのかも知れない。ひょっとすると、それぞれの世界に時間のずれが発生したことで、その歪みが、それぞれの世界を見せる効果に繋がったのかも知れない。
――この世界は、本当の現実なのだろうか?
と、時々考えることがあった。
もちろん、何かのきっかけがなければ考えることもないのだろうが、晴彦の場合は離婚がきっかけになって、見ることのできなかったものが見えてきたように思えた。実に皮肉には感じるが、離婚を悪い方にばかり考える必要もないのだという、警鐘なのかも知れない。
「偽り」が存在するとするならば、一体どちらの世界なのだろう……。
第四章 左右対称
今まで、
――男性を本当に好きになったことなどあったのだろうか?
と、明美は考えていた。
高校時代に好きになった人がいたのだが、結局告白できずに終わってしまった。
恋愛に関しては、極端に晩生だと思っている明美は、芸術に走ってしまうことが、恋愛を妨げる原因になっているのではないかと感じるのだった。
だが、芸術に親しんでいたおかげで、芸術を共有できる男性と知り合うことができたのは幸運だった。明美は絵画を専門に描いていたが、彼は彫刻の方だった。同じ美術系であっても、絵画と彫刻では、かなりの違いがあるだろう。それだけに一度会話になると、話題は果てしなく、今までに感じたことのない会話への興奮が、沸き起こってくるのであった。
大学に入ると、美術サークルに籍を置いた。部員は全部で二十名もいない。そのうち半分近くは幽霊部員のような感じで、入った時は、拍子抜けしてしまった。大学のサークルなので、どこまで活動に真剣さがあるかが疑問ではあったが、本当に幽霊部員がいるほどのひどさとは思わなかっただけに、やる気が失せてしまった時期があった。
さらにそれが五月病と重なったのだろう。今までに感じたことのない寂しさと不安が明美に容赦なく降りかかる。